第190回 ■古代への夢、大海を渡る!■
おお〜、千夏さん、ついに「市民」になりましたか。
「市民」について、日本文化政策学会の会長、中川幾郎先生がおもしろい言い方をしておられます。市民には3種類ある。@ただ家に帰って寝るだけの「寝民(しんみん)」〜(サコ注)朝から夜更けまで会社で過ごす猛烈仕事人。ご近所づきあいなど、ほとんどしない。Aとりあえず住んでいる「居留民」〜(サコ注)いずれ故郷に帰るから、市民活動や市政には、まぁおつきあい程度に関わる。Bほんとうの意味での「市民」〜(サコ注)たとえ出身地は違っても、「このまちで死ぬ」と覚悟を決めて、まちの行く末を本気で案じ、行動をおこせる人。ほんとうの「市民」こそ、まちを変えることができます。おおいに気炎を上げてください。
さて、話はガラリと変わります。韓国みたいに派手なイベントはないけれど、地域住民の人たちがさまざまに工夫して、遺跡で手作りのイベントをしているのが日本の強みだと思います。5月にも、千夏さんが応援してくれている2つの遺跡、島根県松江市の田和山遺跡と鳥取県米子市・大山町の妻木晩田遺跡の間を、丸木舟で航海して繋ごうという面白いイベントがありました。
言いだしっぺは、「からむし号の会」のみなさんです。コトの発端は、いまから30年前に遡ります。島根県のある小学校の歴史の時間、先生は「縄文時代や弥生時代に、石器の石材として隠岐の黒曜石を丸木舟運んできたんだ」と言いました。「うっそぉ〜!」と生徒たちは言いました。「ウソじゃない!だったら、やってみせてやろう」・・・という会話があったかどうかは知らないのですが(^_^;)、小学校の先生たちがPTAと一緒に石斧で丸木舟を作り、隠岐島から島根半島の北岸までの約50kmを、13時間かけて丸木舟で渡ったのです。この快挙は、実験考古学のデータとしても貴重であり、大きな話題になったことを、幼かったサコ(^_^;)も覚えています。
その先生たちが定年退職した後、「もう一度やりたい」と新たに丸木舟も作り、練習もし、準備万端というところで、この企画がもちこまれたのでした。
ただ丸木舟を漕ぐというだけでは面白くないので、田和山遺跡で子供たちが作った勾玉を、丸木舟で妻木晩田遺跡に運び、妻木晩田遺跡で子供たちが作った鉄器や草木染した布と交換をするということにしました。県境をまたぐイベントでしたが、妻木晩田遺跡調査事務所がまとめ役となってくれて、多くの関係者の方々の協力を得て、実現の運びとなりました。そうそう、この「おんな組」HP担当のミキちゃんにも、このイベントの紙芝居の制作をお願いし、事前学習の時に上演して、とても好評でした。
(画 きみのみき)
5月19日、山陰では珍しいほどの青空のもと、丸木舟「からむし4号」は、田和山遺跡の子供たちから勾玉を受け取り、宍道湖から美保関をめざしました。舟は長さ8m、大人6人が乗り込みました。風もなく、丸木舟はスイスイと順調に進みました。私たちは、自動車で追いかけて、途中で岸から声援を送りました。
いざ、出発!
前方に松江大橋と松江城
20日は、美保関から妻木晩田遺跡のふもとの淀江港をめざします。この日も穏やかな快晴で、美保関から淀江まで16kmを4時間弱。途中で妻木晩田遺跡の先端からノロシをあげました。丸木舟が淀江港に入ってくる時は、なかなか感動的でした。
朝5時に美保関を出港
遠くに大山、手前に孝霊山、そのふもとが淀江港