第179回 ■なにはともあれ謹賀新年■

中山千夏(在日伊豆半島人)

サコちゃん、みなさん、いかがお過ごし?
私は、かの有名な一茶のコピー、いや一句をひしひしと感じているです。

  目出度さもちう位也おらが春

正月を特別視しなくなって久しい。改まるったって昨日と同じ今日ではないか。特別なことはしないでいる。ただし、かたくなではないので、お飾りを買ってくる友人がいれば、逆らわずに玄関にかける。餅は好きだから、ついたのを届けてくれる隣人には大いに感謝して、つきたてをほくほく食べる。
あとは、PCを前に本と種々録画を手の届くところに抱え込んで、喜ばしく暇を味わう。
こんなワガママができるのは、年中行事にうるさい家族が上も下もいないからにほかならない。

かたくなではないものの、あらゆる伝統、わけても宗教的慣習の趣が濃い伝統への、小さな反旗が心底にありはする。そんな心に相応しく、生物学者リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』を暮れから読む。自由の国アメリカに、無神論を述べる自由は、日本以上にないようだ。
それだけに、科学者の宗教観は厳しく問われる。知識人から宗教批判がほとんど出ない日本とは、様相が異なる。私の偏見かもしれないが、ここ日本では、幼児を見れば相好を崩して走り寄り、仏像の前でうっとりしてみせれば、「品格ある女」と見てもらえるようだ。
しかし、アメリカと似た状況は、仏教よりもむしろ天皇を巡ってある。してみると、やはり日本の代表的な神は天皇なのだろう。

私もドーキンスと同じで、人格神の存在は信じない。人間の運命に興味を持って、助けたり罰したり、人間に崇敬を要求したりするような神仏は存在しない。存在する、という考えもあっていいが、押しつけないでほしい。信教の自由とは、神の存在を信じない自由でもある。

何度正月を迎えても、どんなに年をとっても、科学的真実を真実として生きようと思う。なにしろ私は、鉄腕アトムと共に育った科学の子なのだから。

  こころやさし〜ららら科学の子〜

自然を畏怖することは、少しも科学と矛盾しない。そうだよね、手塚治虫さん。むしろ自然への畏怖は科学の発端だ。現在の人間の限界を知ることも科学と矛盾しない。むしろ科学とは、自然に対する人間の限界を追求することだとも言える。

そうしてみると、原発の推進は、自然への畏怖なく人間の限界を省みない点で、信仰の欠如であるよりは、科学の欠如だ。日本のエネルギー政策に力を持つおとこたちの、きわめて非科学的な資質がフクシマを引き起こした、と言える。
「原発の安全神話」はまったく文字通りの意味での神話だったし、それをかついできた者たちは、ただの原発信者だったのだろう。日本の知性はまだまだ中世なのかもしれない。

さて、科学知識ばかりあって非科学的な専門家に勝手されるのは、もういいかげんにしなくちゃね。生命がいくつあっても足りないよ。
今年は少しでも脱原発に向かう年にしましょ。

  正月も二つは人のあきる也(一茶)