第174回 ■津波と遺跡の続き■

佐古和枝(在日山陰人)

・・・ということで、11月19日・20日と、千夏さんと一緒に、宮城県東松島市の宮戸島にある里浜貝塚を応援しに行くことになりました。
今回の津波に関連して、平安時代の貞観11(869)年、江戸時代の慶長16(1611)年、明治29(1896)年、昭和8(1933)年など、三陸沖を震源とする地震で巨大津波が発生した過去の記録が紹介され、歴史に学ぶことの大切さを改めて気づかされました。「想定外」なんて言い訳は、通じないですよね。

前回紹介した仙台市の沓形遺跡の他にも、津波の痕跡が確認された遺跡を探してみたら、けっこうありました。たとえば、大阪府狭山市にある狭山池(海抜70m)は7世紀前半に築かれた灌漑用の池ですが、7世紀後半と1605年の慶長大地震の際に津波で運ばれたと思われる珪藻(海に生息する植物プランクトン)の化石が大量に出土。8世紀ごろと17世紀前後の大規模な地震による噴砂や地滑りの痕跡も残っていました。また、神戸の旧神戸外国人居留地遺跡でも、1707年の宝永地震または1854年の安政南海地震のいずれかによる津波の堆積物が確認されています。関西も瀬戸内も、油断できませんぞ。
石垣島の嘉良嶽東貝塚で13〜16世紀の間に発生した地震と津波、嘉良嶽東方古墓群では八重山諸島で1万人近くの犠牲者をだした1771年の明和津波の痕跡が刻まれていました。明和津波は、とくに石垣島南部で被害が甚大で、記録によると人口1574人の白保集落の生存者はわずか28人だったそうです。宮古・八重山諸島では、3400年前から6回の大津波があったことが確認されているそうです。

考古学は、太古の昔から近年までの、自然と人間のつきあい方を学ぶことができます。いま私たちが生きているこの場所、同じ地形、同じ気候のなかで、遠い祖先達がどんなふうに暮らしてきたか。そこには洪水、地震と津波、火山の噴火などの災害による悲惨な歴史も刻まれていますが、その一方で、自然の恵みの豊かさ、海の幸・山の幸の豊富さや、そこに発揮された古代人達の智恵や技術も刻まれています。里浜貝塚もまた、縄文時代に3回の津波にあいながらも、東北の縄文人の豊かさや逞しさを教えてくれる遺跡です。津波に襲われた後も、そこで生き続けた里浜縄文人の血をひいているのだから、いまの里浜の皆さんも、きっと力強く復旧・復興してくださると信じています。


里浜貝塚
(東松島縄文村歴史資料館パンフレットより)