第150回 ■歴史の虚と実■

佐古和枝(在日山陰人)

かつて千夏さんも一つ、古代の短編歴史小説を書かれましたよね。有名人ではない、普通の女の子が主人公でした。私、あの短編、好きですよ。
「歴史に名前も残らない人々に光をあてる」のが、考古学徒の仕事です。遺跡では、身分も老若男女も区別なく、そこで暮らした人、そこに埋葬された人すべてが姿を現します。そういう意味ではフェアであり、虚構も捏造もない世界です。もっとも、発掘を捏造した人はいましたけれど(汗)

白状すると、サコは歴史小説の愛読者。韓国ドラマも、歴史ものが好きです。小説もドラマも、エンターテインメントの要素が必要だから、創作(捏造)があるのは当然です。
私は仕事柄、古代史なら虚の部分と実の部分がわかるので、むしろどんなふうに創作・捏造されているのかに興味あり。韓国の古代史のドラマは、日本ではあり得ないほど大胆に捏造している(というか時代考証に無頓着)のが面白いです。論文では書けない世界を自由奔放に描ける小説やドラマという媒体が、羨ましくなったりします。しかし、あれが事実だと思われたら、困るなぁ〜。
でも、小説なら、まだマシな方。学生の発表を聞いて、「その根拠は?」と尋ねると、「漫画で読みました」とか「ゲームで、そういうストーリーになってます」なんて答えが時々返ってきます(@_@) これは、作る側の責任というより、娯楽性をもつ媒体の場合、受けとる側が、眉にツバつけながら読む・見るという大前提を忘れてはいけないっていうことだと思います。

虚実混淆の危険性があるにしても、歴史小説が歴史への門戸を広げる役目をはたしてくれていることは確かですよね。「歴史は大嫌い」という学生に、黒岩重吾さんの古代史小説を貸したら、「おもしろかった!これならオレでも読める」と言われ、小説家という職業にちょっと嫉妬したサコでした。

そういう意味で、歴史小説は、復元された遺跡と似てるのかなと思います。韓国の全谷里遺跡という旧石器時代の遺跡公園では、広い敷地をフィールドにして、等身大のブロンズ製の旧石器人たちがあちこちにいて、狩りをしていたり、動物を解体していたり、池で魚を捕まえていたりしています。ホントかな?と思うより先に、メッチャ楽しかったです。旧石器時代って、なかなかイメージしにくいけれど、あんなふうに見せてくれたら、子どもたちも考古学に親しみをもつだろうなと思いました。


全谷里遺跡

でも、遺跡を復元すると、その姿が強烈に印象づけられる怖さがあります。もちろん遺跡の復元は、多くの専門家が時間をかけて議論して、それなりの学問的根拠をもっておこなわれています。しかし、わからないことも山ほどあって、最後は「これでいく!」と決断するしかないことも少なくない(^_^;) もしかすると皆さんに間違った印象や知識を刻み込んでいる恐れはあるのです。
しかし、埋もれたままでは遺跡の価値がわかってもらいにくいし、せっかく保存した遺跡を活用することもできません。「空き地にしておくくらいなら、工場を建てよう」みたいな話になったら大変です。だから、まずは遺跡に興味をもってもらうことが必要なのです。そのために、不確定要素があるとしても、できるだけ遺跡は復元した方がいいと思います。遺跡を復元してみることで、いろんな問題点に気づいて、考古学の研究も進みます。そして将来、復元の仕方が間違っていることが明らかになれば修正すればいい。
そんなわけで、眉にツバつけて・・・というほどではないけれど、復元された遺跡は、あくまで復元案の一つにすぎないと思って見学してください(._.)


壱岐の原の辻遺跡


佐賀の吉野ケ里の写真