第144回 ■おかえりなさい!■

佐古和枝(在日山陰人)

このところ、毎年恒例のボニン暮らし、今年も楽しそうでしたね。そして、なんと美しい写真の数々! 陸からサメが見える? 目の前でサメやアオウミガメが泳いでる? このン十年間、海は眺めるだけという陸生動物のサコには、信じられない夢の世界です。セミエビ?ワモンダコ?怖い・・・(/_;)

サッカーからタコ、タコから持衰(じさい)というのは、おもろい連想ゲームでした(*^。^*) 持衰とよく似た民族事例を参考にすると、持衰も船には乗り込まず、本拠地であれこれタブーを守りながら、航海にでた人達の帰還を待っているのではないかと思います。
『魏志』倭人伝によると、海に潜ることも、倭人の得意技。倭人のオトコ達がみな、顔や体に入れ墨をしているのは、海に潜る時にウミヘビや大魚に襲われないためだと、倭人伝に書いてあります。日本でいえば、弥生時代の話です。戦国時代に呉とか越の国があった南の江南地方(長江下流域の南側沿岸地帯)の人達も、入れ墨をし、海に潜って魚をとっていました。『魏志』を書いた陳寿さんは、倭人と江南の人達の風習がよく似ていると思ったらしく、倭人の入れ墨の説明のところで、江南の人達の入れ墨の話を引用しています。漢民族は、「水に潜るなんて、まっぴら御免だ」という人達だったし、入れ墨は重罪人の刑罰でした。だから、入れ墨をして海に潜って魚をとる倭人や江南の人達を、奇異な連中だと見ていたんでしょうね。

倭人が魚捕りの名人だということは、ずいぶん有名だったようです。『後漢書』によると、178年、漢の国境の北側で勢力を伸ばした鮮卑族の部族長・檀石槐は、人口が増えて食料不足になった時、烏侯秦水(遼河支流の老哈河(ラオハ)か)を見て、魚はいるのに魚を捕る人がいなかったので、倭人は魚を捕るのが得意だということで「東の倭人国を攻めて千余国を得て、秦河のほとりに移住させて、魚を捕らせて食料不足を補った」そうです。鮮卑族は騎馬民族だから、魚を捕ることは苦手だったのかな。それにしても、わざわざ遠くから倭人を連れてきて魚を捕らせるなんて、ね。

江戸時代に福岡の志賀島でみつかった有名な「漢倭奴国王」の金印のつまみは、蛇の形をしています。中国の皇帝は、異民族が朝貢にきたら、その民族にゆかりのある生き物を印のつまみにしました。北方系の人達にはラクダとかね。そして、倭人は蛇。。。


蛇=海の神様である龍、なんです。龍蛇信仰は、先に述べた中国の江南地方をはじめ、東アジアの沿岸地域で暮らす稲作漁撈民の間に広まる風習です。倭と同じく稲作漁撈文化圏の■国(雲南省昆明)の王も、紀元前109年に前漢の武帝から蛇鈕の金印をもらっています。
江南地方の人達は、龍の入れ墨をしていました。何年か前、雲南省の少数民族の村に行った時、ガイド役のタイ族の男性も、腕に龍の入れ墨をしていました。彼に聞いてみたら、タイ族の男性は、7、8歳になったら一人前のオトコになる儀式として入れ墨をいれるのだそうです。

最近、入れ墨をしている男子学生をみかけます。半袖とかランニング姿で、両腕や胸元のデカイ入れ墨を堂々と見せています。もちろん、シールではなくホンモノです。最初はギョッとしたけど、近くで見るとなかなかきれいなものでした(^_^;) それでも一応、「アホ! 温泉に入れないぞ。嫁さん、みつからないぞ」と言うのですが、「そうかなぁ?」と平然としています。でも、先日のサッカーの試合を見てたら、外国のチームには、入れ墨した選手がいっぱいいました。野球やバスケットでも、そうだとか。ああいう姿を見て育った若者たちにとって、入れ墨=怖いおにいさん、ではなく、かっこいいファッションなのかなぁ。そういえば、『魏志』倭人伝にも、倭人の入れ墨は「いまは(本来の意味を失い)飾りになっている」と書いてありました。ちゃんちゃん。