第142回 ■脳の大きさ■

佐古和枝(在日山陰人)

はい、同感です。縄文時代や弥生時代に「日本人」はいないし、聖徳太子もまだ「日本人」ではない。だって、まだ「日本」という国も「日本」という呼び名もありませんからね。日本という国が誕生したのは、701年の大宝律令制定、遡っても7世紀末の天武朝です。
考古学は、民族とか国家、国籍など、なかった時代を見せてくれるから好きです。学生時代には先生に勝手にテーマを決められて古墳時代が専門だったのですが、妻木晩田遺跡の出現以来、ずっと弥生時代に浸っています。でも、考古学を始めた頃から、武器をもたない縄文人に片思いしてました。そして今は、もっと素朴な旧石器時代に興味津々です。旧石器って、わからないんだけど、石を割っただけなのに、めっちゃカッコイイ。石の割り方もだんだん賢くなってきて、「おっ、おサルさんからだんだん人間らしくなっていくぞ」って、わくわくします。

旧石器に詳しい友人が「カボチャを切る時、どうする?」と、言いました。包丁の背に左手を添えて力をかけて、エイヤァ〜って切るでしょ? 旧石器時代人も、ナイフ形石器の刃の反対側を平たく潰して、モノを切る時に、上から押えても指が切れないように工夫してる。「旧石器時代から、ちゃんと考えてるのよ」と言われて、ナルホド〜と感心した旧石器素人サコでした。石を割るという単純に思える作業にも、生きていくための智恵がいっぱい詰まってるんですよね。

彼らの脳の大きさは、現代の私たちの脳の大きさはさほど変わらない。人類は、600万年前に登場した時、脳の容量は400ccほどチンパンジーと変わらない。それが後半の300万年の間に3倍近く大きくなって、現人類は1400cc。でもこの大きさは、この20万年の間、ちっとも増えてないので、脳の発達の停滞期と言われているそうです。っていうか、もうこれ以上、賢くならないんじゃないのかな(^_^;)
脳の容量が同じということは、彼らは私たちと同じくらい忙しく脳を働かせて、私たちがあまり考えないことを必死に考えていたはずです。生きるか死ぬかが係っているから、現代人よりもっと真剣に脳を働かせていたことでしょう。現代人は、彼らより賢くなったのでしょうけれど、それは彼らよりもはるかに膨大な知識と情報をもっているだけなんじゃないのかなぁ。その知識と情報は、長い長い人類の歴史の蓄積のおかげであったり、ごく一部の賢い人の研究成果の恩恵に預かっているだけで、一人ひとりの脳は、旧石器時代や縄文時代の人たちの方が、うんと真剣にフル回転してたように思います。

千夏さんが警戒する「指導力抜群」「オレについて来い!」タイプの指導者は怖い。でも、そういう指導者が出現するってことは、「強い指導者について行きたい」という人が多いってことですよね。そのことの方が怖いですね。うちの近所にも、そういうタイプの知事がいるでしょ? 彼の場合、指導力というより、世間やマスコミにウケるパフォーマンスがうまい。方向性は間違ってないかもしれないけれど、手法や手順があまりにアコギでいけません。それでも、いまだに人気は高い。マスコミを巧みに利用して世論を煽って味方にするのも、ヒットラーの手法です。昨年、ある出来事で知事のやり方に批判が起きた時、地元を取材したマスコミに「ええねん、ええねん。自分の理想に向かって一生懸命頑張ってるんやから、何でも言うとおりにさせたげるねん」とおばちゃん達は言うてました。思考停止・自助努力放棄・責任回避etc. 脳の働きがストップしてる。脳の発達の停滞期・・うむむ、21世紀は脳の衰退期といわれないように、古代人をみならって、もっと真剣に脳を働かさなきゃ。