第137回 ■夢追い人も生きさせて■

中山千夏(在日伊豆半島人)

さてさて。
>「在米日本人は胴長短足が多いですよ」と、アメリカ生まれの日本人の留学生が・・・彼も伝統的な日本人の体形でした。
うううむ。これ以上は実測データで話していかないと、「邪馬台国は近畿だ、近畿だったら近畿だっ」路線になっちゃうね(^^;)

でも、もうちょっと危険を侵すと、日本人の発音の変化も急スピードだと思いません?
最近、また気が向いて、古事記の歌謡を調べている。歌は仮名書きなので、表記や発音にまた興味が向く。
ご承知のように、古事記時代には今より母音がたくさんあったし、子音にしても、hは全部pだった、などが現代音韻学の定説。だからたとえば、「高光る 日のみこ」の古代音は、もはや現代のカナでは表記できず、タカピカル・ピナミカに近い音だったとか。
古代人に会えたとしても、意志の疎通には、ちとひまがかかるだろう、やっぱり中国に頼って漢文の筆談がてっとりばやいかな、などと妄想した。

そこで今、しばしば気になるのが、若者の発音。「それで〜」の「〜」部分が、とてもカナでは表せない複合音だったり。強いて記すなら「それでぇぁ」みたいな。
最近、かなり目立つのが、シャをサ、シをス、と発音するもの。
(例)会社→カイサ、殺しました→コロスマスタ、いらっしゃいませ→イラッサイマセ

特に少女に多い。真似てみると、前の音から大きく口や舌を変化させなくていいほうに、流れているのね。口周辺の筋肉をできるだけ動かさず、仏頂面のまま楽に発音できる方向に、変化しているようだ。おもしろい。
ほかにもいくつか気がついている。そして、この調子でいくと、何百年もしないうちに、ひいじいちゃんとひまごは会話が難しくなるのではなかろうか、と思っているのです。

ところで「夢」の件ですが。確かに件の高僧のような見方もできるでしょうね。
しかし思うに、いけないのは夢の質ではないかしら。個人が抱く夢も世の中の影響からはなかなか逃れられない。というより、世の中の影響に逆らって独自な夢を抱き続ける猛者は、そんなにいない。
そこで現代の夢を考えるに、一口で言ってそれは「名声や富でひとに勝つこと」ではありますまいか。勝たないとみじめ、生きられない社会だからね。ま、大衆的戦国時代だね、現代日本は。
まずそれがあって、なにをしたいかは、その手段として考えられる。となると「やりたくないこと」というのが、実は「そんなことやっても勝てないこと」で、「やりたいこと」が「それやれば勝てそうなこと」になっちゃう。だから、「勝てそうなこと」が見つからなかったり見失ったりすなると、一挙に夢が崩れさった気がして、自暴自棄になったりするんじゃないの。

確かに、世襲的身分制度は、名声や富での勝ち負けを考えなくてもいいシステムだった。けれども、もどるのはイヤでしょ。というより、人間、ひとたび自由を知ってしまったら、戻れないでしょう。

となると、名声や富での勝ち負けにかかわりない夢を抱くことが許されて、その夢の実現をめざしながら生きるひとびとが安心して生きていける社会を作るのが、本筋だと思うんだけど。いわば、夢追い人としてのニートも一人前に扱われ生きられる社会になればいいなあ、と思う。
だってね、スウェーデンの友だちは、もう40歳近くなるけど、日本で言えば、大学卒業以来ずうっと半ニート状態で、堂々と遊び勉強しているよ。世襲的身分制度がなくても、そんな夢の持ち方、追い方、できる社会がありうるわけよ。

政権変わって、微妙にだけど、そっちに行ってる感じがする。政権交代って、なるほどこういうことなのか、と感じるニュースが多い今日この頃であります。