第122回 ■サメの話■

佐古和枝(在日山陰人)

ハマダツ!そして、フナ説支持!深澤さんに伝えたら、喜んでいました。それにしても千夏さんは、サメとも仲良しなんですか?お〜、怖っ!(>_<) でも、調べてみたら、シロワニっておとなしいサメなんですってね。
ってことで、今回は考古学からサメのお話を一席(__)

考古学では、とくに縄文時代に、貝塚でクジラ・イルカ・サメの骨や歯が出土したり、サメの骨や歯で作ったペンダントが、さほど珍しくもなくみつかります。北海道カリンバ遺跡(縄文後期)の118号墓の被葬者は、サメの歯をたくさんぶらさげた帯のようなものをつけていました。世界の民族事例にもあるように、強〜い生き物の一部をアクセサリーとして身につければ、その生き物の強〜いパワーが自分にも宿る。縄文人たちも同じ思いで、サメの歯やイノシシとかオオカミなどの牙のペンダントを身につけたのでしょう。
わが故郷の鳥取県でも、縄文時代の遺跡で、メジロザメの歯で作ったペンダントや、サメの歯をかたどったと思われる石製のペンダントが出土しています。前回ご紹介した青谷上寺地遺跡でもサメの椎骨や、近年まで地元のサメ漁で使われていた道具とよく似た大型の釣針と離頭銛が出土しています。

青谷上寺地遺跡の近くで、昭和30年代までサメを捕っていたという漁師さんの話では、鉄製のテグスにサメ用の釣針をつけた延縄を仕掛け、延縄にかかったサメの背と腹の間にある急所にめがけて離頭銛を突いて、とどめを刺すのだそうです。サメは、雪が降る頃になると沿岸に集まってくるので、サメ漁も年末から節分あたりにおこなうことが多く、荒海の中に5m前後の船に乗ってサメと格闘するこの漁は、まさしく命がけだったそうです。
それを、丸木舟で、石や骨で作った漁具でやってのけたんだから、あっぱれ!縄文人。それにしても、なんでそんな危険を犯してまでサメを捕らなきゃいけなかったんでしょうね。よほど他の魚が捕れない時の悲壮な選択だったのか、サメが「美味い!」と思ったのか、はたまた危険を犯して捕ることに何か意味があったのか。

おもしろいことに、海のない長野県の縄文遺跡でも、人によって運ばれてきたサメの歯や骨、さまざまな海産貝で作ったアクセサリー、タカラガイの土製品、魚の絵を描いた土器片が出土しています(川崎保「海にあこがれた信州の縄文文化」より)。たまたま中継交易でリレー式に運ばれてきたというのではなく、日本海にそそぐ千曲川によって、信州も海の文化と繋がっているようです。
不思議なことに、弥生時代や古墳時代には、サメの登場頻度が減るのですが、奈良・平安時代には、都への貢納品として登場します。奈良県の藤原宮(694〜710年)跡では、サメの骨がみつかっています。平城宮跡ではサメはまだ出土していませんが、平城宮跡出土の荷札木簡には「佐米楚割(さめすわり)」(サメの肉を小さく切った干物)が、愛知県三河地方から貢納されたと書かれており、塩漬けや干物などにして、都まで運んだものと考えられます。
鮫の楚割は、伊勢神宮の神饌の一つでもあります。サメを神饌とする神社は、伊勢神宮のほかに千葉県香取市の香取神宮や愛知県津島市の津島神社があるそうです。

太古の昔から現代にいたるまで、サメも、クジラ同様に、食べるだけでなく、捨てるところがないほど、いろいろ利用されてきました。なかでもサメの皮は、奈良時代以降、中世・近世を通じて、刀剣の柄の装飾に使われました。現存する最古の物は正倉院に納められている「金銀鈿荘唐大刀」。聖武天皇が崩御し、光明皇后がその遺愛品六百数十点を東大寺大仏に寄進した献納目録(国家珍宝帳)によると、献納された100口の大刀のうち30口は、サメ皮を柄の外装に使っています。サメ皮は粒々があるので滑らないから、刀の柄に使うといいのだそうです。
サメがこれほどさまざまに利用されていたとは、私も知りませんでした。でも、近年フカヒレ目的のサメ漁が急増してサメが激減しているそうです。いくらイノシシが大好物でも、子供のイノシシは捕らなかった縄文人を見習って、フカヒレ・スープもほどほどにしなきゃいけませんね。