第113回 ■未来の考古学者のために?!■

中山千夏(在日伊豆半島人)

うひゃ〜すみません〜〜
軽く発したおたずねが大変お手間をかけたようで(^_^;
学者はこういうこと軽くはすまぬ、と心得るべきでありました〜まして新学期目前という時に〜伏してぺこぺこです。

サコ先生もご存じのとおり、古事記を知り日本書紀とのギャップを知ってからというもの、日本書紀の記事に基づく外交歴史解説には、どうも素直についてけないもんで(^_^; つい(^_^; 出典根拠が気になって(^_^; 外国資料の「倭」はほんとに大和政権かあっっ???などと、できるだけわくわくする異説を楽しむのがシロウトの常、どうか大目に見てやってください。

しかし、文化に文字のあるなし、これ、大きいなあ。最近も、つくづくそう思った。
ちょっとグアムに行ってきたのね、先月。で、「ラッテストーン」という遺跡を見てきた。不思議なカタチの石柱群。
感無量だったのは、その用途に確実な定説がない、ということ。だってね、その遺跡、そう古くないのよ。エンカルタ総合大百科によると、マリアナ諸島で見られるもので、9〜17世紀に多く造られているんだって。ってことは、グアムで言えば、チャモロ族がスペインに征服されたのが16世紀だというから、西欧化で消えていった文化でしょう。

でもね、17世紀まで造ってたわけよ。それがもはや用途不明。紀元前のエジプトや中国のことがやたらに詳しくわかっているのと対照的。やっぱり文字記録の力は大きい、と改めて思ったわけ。

日本の場合もそうだよね。古事記が712年、日本書紀が720年。これらは、しかし、記録文化の黎明期のものでもあるわけで、当時の大和政権が記した彼らの「古代」や「中世」は、エジプトや中国のそれと違って、いわゆる同時代記録ではない。日本全体の科学的歴史とは相当にズレているはず。文字記録がないから、あんなに立派な、古代エジプトや中国のものに較べれば真新しい銅鐸だって、用途に確定的な説がない。

だから、縄文、弥生、古墳時代の実像に、遺跡や遺物から迫る考古学が、真の歴史を知るのに大切になってくるわけだけど。

無責任なシロウトでさえ、日本の古代をちょっと考えると、うううううむ、文字記録があったらなあ、と思うこと、多い。
だから、ま、現代人としては、未来の考古学徒のために、せいぜい正確な歴史記録をたくさん、残す努力をしましょうかね。

その際、立派な歴史書もいいけれど、市井人の自分史も貴重だと思うな。これまでの歴史記録は、もっぱら権力者のことばかりで、一般人民がどんな暮らしをしていたか、まず、わからないもんね。現代では、一般人が文字という力を持っている。どんどん書くべきだと思うな、自分の歴史を。きっと未来の考古学者は、大喜びするよ。

グアムのラッテストーン