第96回 ■なんとなく「カミサマ」■

佐古和枝(在日山陰人)

は〜い、お疲れさまでした。出雲大社の本殿、ドキドキしましたね。今度は、11月の古伝新嘗祭を、ぜひ体験してください。弥生時代の神祭りもかくありなんっていうような、不思議な時間と空間です。

日本人は無宗教だといわれるけれど、教典や教団とは縁がなくても、少なくともわれわれ世代以上の日本人には、「そんなことすると、バチが当たる」という言葉が生きている。固有名詞をもたない「カミサマ」。。。っていうか、人智の及ばないナニモノかの存在を、畏れ敬う気持です。

3500年前、火砕流に襲われた小豆原の縄文の森の木々たちが、焦げて倒れたり、ぐっと耐えて空にむかって立ち続けていたりする姿もまた、人間が太刀打ちできない自然の力の凄まじさを教えてくれました。

無理やり雨を降らせたり、クーロン動物を作ったりするようなことは、神様の領域を侵しているような気がしてなりません。人間がすべてを支配できると思ったら大間違い。教典や教団を整えた宗教という形をとる以前に、そんな目に見えないナニモノかを畏れる気持が、人類社会を律してきたのだと思います。

弥生時代以降の人々は、稲作を始めたことで、だんだん生産性、効率性を追求しだすのですが、それ以前の縄文人は、まったくもってワケのわからんことに精を尽くしました。だって、縄文土器を見てください。容器として、あんな使いにくい、あるいは非合理な形はないでしょう?お墓を造るために、なんでわざわざ40kmも離れた河原から何百個もの石を運んでこなきゃいけなかったのか。そして、機能的には意味もなく必要以上に美しく作られた石槍など。

それを「無駄な労力」なんて思うのは、生産性や効率性しか考えないから。いまの言葉でいえば、経済優先主義ですね。縄文人たちは、自分達が楽をしようなんて思っていない。そういう行為に汗を流すこと自体が、たぶん神様や仲間同士とのコミュニケーションとして大切な意味をもっていたのだと思います。

合理性、生産性、効率性を追求することが文明だとしたら、リクツではなく心の充足を満たしてくれるのが文化。腹の足しにはならず、無駄なように思えても、おそらくそれを失ったら、人類社会は崩壊する。時代とともに、「非合理、非効率=無駄」に思えることはそぎ落とされてきたけれど、そのギリギリのところを支えているのが、なんとなくでも「カミサマ」に頭を下げる気持だと思います。出雲大社は、まさにその殿堂。文化は大切なのだよ、ハシモト君。