第86回 ■クマソ、大好き!■

佐古和枝(在日山陰人)

腹だたしい大阪を離れ、遺跡めぐりのツアーの引率で、熊本県南部の山の中、人吉盆地をかけめぐり、リフレッシュしてきました。14年前、人吉盆地の真ん中の球磨郡免田町(いまは、あさぎり町)の本目遺跡という弥生時代の墓地を、サコめは発掘調査しました。そのご縁で、第2の故郷のような町なのです。
球磨郡は、記紀に登場するクマソのクマです。南九州のクマソとは、「天皇家に逆らってケシカラン」ので、景行天皇や息子のヤマトタケルが“征伐した”と書かれています。記紀神話では、九州には筑紫国・豊国・火国・熊襲国の四つの面(つら)があるといいますから、いまの球磨郡よりもっと広く、南九州全体をさす言葉とみていいでしょう。

クマソと呼ばれた人達は、かの女王卑弥呼に従わずに対抗した狗奴国の末裔であるという説が古くからあります。狗奴国にしろクマソにしろ、反体制側でがんばった人達です。
記紀では悪者みたいに書かれたクマソですが、クマの中心である免田町には、注目すべき遺跡があります。ひとつは、私が発掘した本目遺跡。大正・昭和初期に、ここの畑を開墾したら、カッコいい弥生土器がたくさん出たので、それらは「免田式土器」と呼ばれています。免田式土器は、弥生後期、ちょうど狗奴国の時代に南九州に流行します。
免田式土器は、弥生土器のなかでもっとも気品があるとも言われます。そういう洗練された土器を使ってお祭りをしていたのです。

もう一つは、6世紀末の才園古墳で出土した金メッキの中国鏡です。日本の遺跡で金メッキされた鏡は、たった3枚しか出土しておらず、本場中国でも貴重品です。才園古墳の鏡は、3世紀頃に中国の江南地方で作られたものであり、地元勢力が中国と直接交流するなかで入手したものと考えられています。
3世紀頃に入手して、ずっと地元で伝えられていたとしたら狗奴国、古墳ができた頃に入手したとしたらクマソの人達の時代です。いずれにしても、そうとうの力をもっていたことを、この鏡が示しています。
だからこそ大和政権は、やっきになってクマソを征服しようとしたのでしょう。気のいいクマソタケルは、宴会中に女装したヤマトタケルにシコタマお酒を飲まされて、酔った隙に殺られてしまいました。
クマソの人達は、別に何も悪いことしたわけじゃないんですよ。大和が勝手にヤキモキして突然に攻めてきた。でも記紀は、勝った大和側が書き残した記録だから、「あいつらはケシカランからやっつけた」となる。勝てば官軍ってやつです。「文字は侵略の言い訳を書き残す」と言ったのはアイルランドの考古学者。遺跡や遺物はウソつかない。あぁ、考古学って、いいなぁ(^・^)と、クマソの末裔のおっちゃん、おばちゃん達に可愛がってもらったクマソ娘サコは思います。