第85回 ■マンバも呆れておるぞよ〜■

中山千夏(在日伊豆半島人)

はいよ〜
わたしはマンバである。
呼ばれてひさびさ出てみれば、この世はますますコガネムシの虚像をあがめたてまつっているではないか。
もはや私の声などは、カネに反響して空しいばかり。
マンバはみずから救う者のみを救う。
では、さらばじゃ〜

・・・・・・あらら、いっちゃった(;^_^A
さすがのマンバもなすすべないのかなあ。

文化については、まったくサコせんせの言うとおりだと思うよ。自己保存と繁殖には直接関係のない行動、それが文化だとすれば、文化こそ人間と他の動物を隔てる、人間の本質だよね。
どんなに貧しい未開の地で暮らすひとびとも、文化を持っている。そして、文化のよしあしはカネで決まらない。だから、貧しい未開の地で暮らすひとびとが、豊かな文化を生きている例は多い。豊かな文化こそ、その社会の豊かさだろう。

ちなみに、女性が家事・育児(自己保存と繁殖の人間スタイル)だけで満足できないのは、まさに女性が人間だからなんだよね。家事・育児でさえ、文化的な装飾を(時には過剰に)加えずにはいられない(つまり人間スタイルになる)、それが人間なんだよね。だから、女性を人間と認めるということは、彼女が家事・育児以外のことをしたがること、することをも認める、ということなんだ。

今、日本にはカネはある。ないないと言うけど、あるところにはある、ということは、テレビを一日見ていればわかる。あるところにはある。今やもう、それを隠そうともしていない。
なのに文化が切り捨てられ、福祉が切り捨てられる。この二つは連動しているよ。この間、生活保護の老齢加算を切り捨てられたおかげで、極貧に陥っている老人が、せつせつと訴えるのをテレビで見た。「これでは生命を繋ぐのがやっとだ。生きているだけでは、人間とは言えないのと違うか」。

守銭奴に牛耳られるこの社会は、カネのない者は文化的に生きられない仕組みになってしまっている。カネがないとなると「清貧」ではいられない。みんなから軽蔑され差別され村八分の不安にさいなまれる「赤貧」しかない。若さでさえ凌げないほどの赤貧。これは文化が枯渇している貧しさだ。
もはや誰も想像できなくなっているけれど、カネはなくても文化あふれる豊かな社会、というものは実在したし、今も実在しているのだ。

解決策はただひとつ。みんながカネの限界を見切るしかないね。一番、効果的なのは、カネなんかいらない、金銭的に贅沢な暮らしなんかやめ〜、と全国の知事、国会議員、大臣が宣言して、自分の給料の半分を辞退することだね、ははははは。府民・県民・国民の贅沢は一刀両断できても、おのれの生活レベルはよう落とさんやろ、そんな勇気ないやろ、なあ、橋下はん?

ところで大阪には、釜ヶ崎がある。都市建設の捨て石にされたひとたちが、カネはなく、従って文化といえば飲酒くらいしかなく、選挙権もなく、餓死凍死と隣り合わせでただ生きている。文化事業をカットしたぶんが、釜ヶ崎にいくのなら、それもひとつの良策だろうけれどね。