心なごみませ  第38回

「いつもあらちゃんといっしょ」

山元加津子(在日石川人)

 私の友だちの松下さんのお話を今日は載せさせてください。
 下の原稿は、松下さんが、あるシンポジウムでお話をされるために作られたものです。

 松下さんのまっすぐな思い、いつもあらちゃんの心に寄り添って生きておられる様子が伝わってくるお話でした。

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<ただのお母さん>の松下です。
何もしていない私ですが聞いてくださるみなさんが、「あんな感じでも生きていけるんだな」と思っていただけたらと思います。

私は 学力偏差値重視の社会に生きてきて、念願の小学校教員になり、整形外科医の主人と結婚、妊娠、<幸せ>の中にあった時に、重度の妊娠中毒症から子癇発作を起こし、生死の境を彷徨う中、27週で手術により取り出された赤ちゃんがあらちゃんです。
772グラムの超未熟児でした。

NICUでは数々の病気になりましたが、少しずつ大きくなったあらちゃんを見ると、障害があるとは思いたくなく、訓練も<普通の子供にするためのもの>の解釈し、私の思う<幸せ>に向けて必死でした。

しかし、私が必死になれば なるほどあらちゃんは体調を崩していきます。でも、あらちゃんは、点滴を受けてもどんなに高い熱が出ても、生きていこうと一生懸命な姿を小さな体で私に伝えてくれました。

「今度も重い中毒症が出ますよ」と、心配された第二子の出産でしたが、先生方のご努力により、無事に元気な弟のすうちゃんが生まれました。
訓練しなくても成長していく姿に、母親としての自信も出てきて、あらちゃんと外に出て行く勇気も生まれました。

同じ障害を持つ子供と親が通園するセンターに通い、親の会も結成。
専門職の先生方もボランティアさんも関わって下さり、たくさんの方と出会うことが出来ました。身近でいつもいつも、私や子供たちを心配してくれる家族の存在も大きさも感じました。

あらちゃんが居てくれるから出会える人たち、あらちゃんが居てくれるからできる体験、気付けること、人生の中での幸せってこういうことだったんだ・・・
私が考えていた幸せは、ただ形だけのものだったんだ・・・
あらちゃん、生まれてくれてありがとう、一緒に生きていこうね!

通園センターを卒園する頃、養護学校入学の際に吸引などの医療的ケアがある為に、当時、看護師配置もなかったので、あらちゃんが入学できるのかどうかと問題になりました。

なんとしても学校に通わせてやりたい・・・親の会などを通じて出来ていたあらちゃんのサポーターの先生方のアツイ想いで入学を許可して頂きました。この時の喜びの写真は、会報のがんばれに載せて頂きました。

学校に通学すると、規則正しい生活から体力がつき、念願のディズニーランドにも行きました。JCのボランティアさんにたくさん助けていただき、親子共々最高に幸せな想い出を作ることが出来ました。

車での移動も長距離も可能になり、東京、大阪、長野などあらちゃんと一緒の旅もたくさんしました。大阪では叔母が看護師ということから吸引注入など心強いサポートもしてもらいました。

介護する側にも、あらちゃんの健康面も考えてバリアフリーの家を建てました。快適でお友達もたくさん遊びに来てくれました。
すうちゃんも「あらちゃんは僕の宝物」と自然に食事のお手伝いや車椅子を押してくれたり、友達にあらちゃんの紹介をしてくれたりあらちゃんと一緒、でした。

主人も仕事柄忙しい中でしたが、バリアフリーになったお風呂に入れるのが楽しみで、あらちゃんに良いと思うグッズがあればと医療用品のカタログを見て探してくれました。今も、養護学校にはあらちゃんグッズとして、チューブや注射器など使って頂いています。

難病ネットワーク主催の「がんばれ共和国〜おいでんほうらい〜」にも参加。
気球に乗ったり、岩魚つかみをしたり、医療体制がしっかりした中でのキャンプで思い切った活動をさせてもらいました。ボランティアのお兄さんにも良くして頂いて、お友達との触れ合い、自然の中での想い出・・・
あらちゃんと一緒にたくさんもらいました。

学校にも一昨年より念願の看護師配置がされ、あらちゃんにも吸引、吸入、ネラトン注入をして頂けるようになりました。
欠席は年間3日と言う快適な毎日で、学園祭、運動会、乗馬など楽しい学校生活を送ることが出来ました。

たくさんの方に支えていただく中、今度はあらちゃんが生きてきた意味を周りの方に伝えることも出来ました。
普通小学校に転勤されたあらちゃんの担任だった先生からいじめ、暴力など命の大切さを分らない子供たちに一生懸命に生きているあらちゃんの話をして欲しいと言われました。

あらちゃんを見つめながら真剣に話を聞いてくれいろいろ質問をしてくれる子供たち。
「僕たちがあらちゃんと遊ぶとしたら、どんなことが出来ますか?」想いは子供たちに届きました。

それから一緒に遊んだり、音楽を聴いたりと暖かい交流は続き、町の大きなホールで<見つめよういのち>という発表会もしてくれました。
「ずっと友達だよ」「生きる勇気をありがとう」
子供たちの伝えるメッセージを町長さんやたくさんの方が聞いてくださいました。町長さんがあらちゃんと握手もして下さいました。

小学部卒業の時には、卒業証書も作ってくれて手作りの<卒業おめでとう集会>もしてくれました。
子供たちひとりひとりがお祝いメッセージを録音してくれたテープは今も宝物です。

すうちゃんも集会に参加し、「お兄さんは大切な人です」と同じ目線にたった子供同士、伝えてくれました。
あらちゃんも、とても満足している様子でした。

この年の12月、突然のことでしたが、痰が詰まり心肺停止状態で救急車で病院に運ばれました。
蘇生して奇跡的に心臓が動き出し、五日間も生きてくれました。

五日間の時間は大変濃く、たくさん幸せにしてくれてありがとうと家族で抱っこして送ることが出来ました。
最期の最後まで頑張って、私に心の整理をする時間をくれたあらちゃん・・・頼もしい自慢の息子です。

すうちゃんも一生懸命に治療してくれた先生に感動して後から、その先生のお兄さんも障害があることを教えてもらいました。
「お医者さんに一番大切なものは心だよ。すうちゃんは、たくさんあらちゃんから教えてもらったね」と、すうちゃんにも勇気を与えてもらいました。

お通夜、葬儀、弔いに来てくださる方が絶えない中、人が居てくれる時はそれなりに時間が過ぎるのですが一人になると、たとえようのない悲しみが襲ってきました。
何を見てもあらちゃんにつながり、思い出しては泣きました。
その中に浸っていたいような、抜け出したいような・・・

居なくなってから 日を追って あらちゃん中心にやってきた家族だったんだなとひしひし感じそれぞれがバランスを崩し今まであらちゃんが居たことで許されていたことが お互いに噴出して私は自分で自分を追い詰めて49日を過ぎた頃に過呼吸発作を起こし、救急車を呼ぶことになってしまいました。

心療内科に通院することになり、こんなふうになってしまったと自分が情けなく、ストーブにあたっていて、ふと、気がついたら一時間も経っていたということもあり、人が壊れていくというのはこんなことなのだ・・と、はっと我に帰ることもありました。

カウンセリングの先生や、内科の先生に暖かく話を聞いてもらい励ましていただく中、自分を責めるのでなく、足りないながらも一生懸命やって来た自分を褒めてあげて、あらちゃんと生きてきたことは本当に幸せだった・・・これからは、その幸せを大切に生きていこうと思えるようになってきました。

これ以上はないだろうという苦しみの中、自分と向き合うことは辛いことでしたが、そこから得られた確かなものは、<あらちゃんが頑張って生きてきたものを大切にしていこう>ということでした。

そんな折、あらちゃんの担任の先生から、特別支援教育施行にあたり、県教育委員会が普通級に在籍するLD ADHDなどの発達障害のお子さんのサポートをするボランティア、<スタディメイト>を募集していると聞きました。

捨てたつもりの教員免許を生かせることも嬉しかったのですが何よりもあらちゃんが「ママ頑張って!」と障害を持つお子さんの力になることを応援してくれているように思い、すぐに研修の申し込みをさせてもらいました。

研修は、あらちゃんが毎日通学していた養護学校であり顔見知りの先生方が「良かったね!」「頑張ってね!」と励まして下さり、担当の自閉症のお子さんとも楽しく過ごさせてもらっています。小学校から要望があれば10月からお手伝いに行く予定です。

主人は、ご縁あってあらちゃんの主治医の先生の施設で障害のあるお子さんの診察をさせてもらっています。
お子さん方があらちゃんに重なり本当にかわいいとお役に立てたらありがたいと言っています。

すうちゃんは、あらちゃんから優しい気持ち、勇気をもらったと話しています。あらちゃんは、今も私たちの中に生きていると思うと幸せな気持ちになれます。

私たちは、あらちゃんに命を吹き返してもらったのではないか・・そんな気持ちで、あらちゃんの写真に、今は笑顔で語りかけられる自分がいます。
今も、これからもあらちゃんと、あらちゃんのくれた大切な命と一緒に生きて生きたいと思います。