心なごみませ  第35回

「太郎君」

山元加津子(在日石川人)

 とても大きな小学校の教員をしていたときのことです。その小学校の近くに、親御さんの方のなんらかの理由で、親元で一緒に生活することが難しいために、親元を離れて生活する子供たちの養護施設がありました。小学校へその施設から何人かの生徒さんが通ってきていました。私が出会った太郎くんという6年生の男の子もそのひとりでした。
 作文の時間にあやちゃんがこんな作文を書いてきてくれました。

 「私のお母さんはとてもおっちょこちょいです。いつも買物にいってレジにいくと「しまった。買うの忘れた、あや、ちょっと順番ついとって」と言って忘れたものを買いに行きます。毎日なので、なれています。それなのに、私が学校に教科書やノートを持っていくのを忘れるとお母さんは怒ります。お父さんはそれを見て「遺伝、遺伝」と言って大きな声で笑います。私もお母さんの遺伝なのでしょうがないと思います。私のお父さんと私が似ているところは顔と笑い方です。お父さんは「子供は親に似るもんや」と言います。お父さんはちょっとゴリラに似ています。私は顔はお母さんに似たかったなあ。」

 とてもおもしろい作文で、家族の暖かい様子が書かれていたので、私はその日その作文をとりあげました。家族と離れて暮らしている太郎くんがつらい思いをするかなあという考えが頭をよぎったけれど、「家族の仕事」「命−僕が生まれたとき」など避けては通れない課題がたくさんあって、太郎くんのことを気遣いながらもしょうがないかなあと思っていたのでした。
 太郎くんはその授業の間、一度も発言しませんでした。そのとき、私は少しもわかってはいなかったのだけど、太郎くんの心の中には家族のだんらんがないというさびしさだけではなく、私が考えていた以上の苦しみがあったのです。
 その授業があってから太郎くんは何日も元気がありませんでした。今まで家族についての授業をしても、元気がなくなるということがなかったので、私は太郎くんが元気のない理由さえわかってはいませんでした。
 「この頃元気がないみたい。心配だな。体の調子よくないの?」太郎くんに声をかけても太郎くんはびっくりしたように大きな目で私をみつめてただ首をふっただけでした。
 
 けれど太郎くんは私に話したいことがあったのです。学校を終わって車のところへいくと太郎くんは私の車の後に隠れるようにして座っていました。
「どうしたの?もう真っ暗になっちゃったね。ごはんの時間がはじまっちゃうんじゃなあい?」太郎くんの顔をのぞきこむようにはなしかけたとき、私の目の中に、太郎くんの思い詰めたような真剣な表情がとびこんできました。
「俺の父さんのことを知っとるか?」
 太郎くんの話し方はきっぱりとしていました。私に話したいことがあるといった感じでした。私は返事につまってしまいました。太郎くんのお父さんは刑務所に服役中なのでした。そしてお母さんは太郎くんが小さい頃、お父さんと太郎くんをおいて、家を出てしまわれたということでした。その原因は太郎くんのお父さんの暴力だったと聞いています。

「あやは『子供は親に似るもんや』って言ったやろう。だけどな、俺は俺で、父さんとは違う人間やろ」
 太郎くん自身も父親の暴力を覚えていて、でも自分はそうじゃないと私に伝えたかったのでしょうか。けれど、太郎君の苦しみはそういう思いからくる苦しみだけではなかったのです。最初の言葉では太郎くんの苦しみのほんの少ししか知ることができなかったのです。
「この間、修一のところに遊びにいったら、修一があわてて玄関に出てきて小さい声で『外で遊ぼう』って言ったんや。先生どうしてかわかるか?修一の母さんが俺と遊ぶなって言ったんや。俺が父さんの子やから、いつ暴力をふるうかわからんと思ってるんや。俺といると悪い影響があると思ってるんや。俺は修一の様子でそのことがわかったんだ。修一は友達やけど、修一に迷惑をかけたくないから、もう修一のところには行かないよ。こんな話は施設ではしょっちゅうあることやよ先生。施設の子は就職もむつかしいし、結婚もむつかしい。あの親の子やからってそう言われるんや。物がなくなればあいつが盗ったんじゃないかと真っ先に疑われる。俺は好きで父さんの子供に生まれてきたんじゃないんや」

 私はまたしても自分がなにも考えていなかったのだとがわかり、自分のことが悲しくなりました。小学校6年生の太郎くんを前にして、私はなにも知らず、何も考えず、何も気が付かずにいました。なんらかの理由で服役しておられる人がいることは知っていました。暴力をふるう人がいれば、その子供さんだっていることもわかっていました。でも、「生まれるつき」とか「遺伝」とかいうことが話題にのぼったときに、こんなふうに苦しむ子供たちがいるということに少しも考えがおよばなかったのです。私のクラスには太郎くんがいて、それなのに、私は太郎くんの苦しみや悲しみをひとかけらだって知らないでいたのでした。自分の父さんを嫌な人だと思うことはとても苦しいことだと思います。それなのに、自分はそのお父さんの嫌なところに似てしまうのじゃないかとおびえています。そして太郎君のせいでは少しもないところで、つらい思いをしているのです。太郎くんはそれから下をむいて、そしてまた涙をためて私をみつめました。

「先生、そやけど、俺、父さんの悪口言われると、かっとなる。自分で自分がわからんくなるくらいかっとなる。そいつを殴り付けたくなる。でもそしたら父さんと同じや。父さんの遺伝が僕の中にやっぱりあるんや。そう思うと心配でおられんくなる。先生は似るということはお父さんやお母さんやずうっとずっとまえのおじいさんやおばあさんからの贈り物みたいな気がするって言うとったけど、俺は絶対に刑務所へはいるような人間にはなりたくないんや」
 私は太郎くんをただぎゅっと抱き締めただけでした。何と言っていいかわからなかった。何も言えませんでした。
 その太郎くんがこのあいだ、私のところに会いにきてくれました。もうすっかり大人になって、今大工さんをしていると教えてくれました。もう〈若い者〉を使っているのだと教えてくれました。「先生、父さんだって悪いところばっかりじゃないんだよ。俺の器用なところなんかさ、父さんゆずりさ」って太郎くんは笑っていました。