心なごみませ  第18回

「ある研究会で。」

山元加津子(在日石川人)

 私は養護学校の教員をしています。
 ある研究会のその日わたしが司会でした。生徒さんの事例を出して、自分たちの子供たちとのあり方を研究する事例研究会。そしてわたしもその研究会の一員なのです。事例にあげられた生徒さんがこんな生徒さんですよと、読んでいる方にもわかるようにということもあるのでしょうか?たくさんのすべての事例のどれもに、ある判定基準という表がついていました。わたしはその中の文字がショックでした。その表のどの項目にも、(たとえば、コミュニケーションとか、機敏性とか)その判定の中で、”軽度の異常”とか”中度の異常”・・それから”正常範囲”という言葉があったのです。それはたぶん、その言葉自体よりも、子供たちの様子が伝わりやすい表だからそれを使ってみようかなということだったのじゃないかと思います。
 わたしの頭の中で、”軽度の異常”とか”正常範囲”という文字がぐるぐると回って、息がつらくなるほどでした。
 わたしは自分に置き換えてしか、物事をなかなか考えられないのだけど、わたしは自分はすごくおっちょこちょいだったり、すぐに道に迷ったり、失敗をよくしてしまう・・でも、それは得意とか不得意だったり、上手だとか上手でなかったりするだけで、異常だとか正常範囲でないというようなとらえ方をされたとしたら、すごく悲しくつらいと思いました。わたしはわたしの大好きな子供たちや大好きな人がそんなふうな言葉で判断されたら嫌だもの。もしわたしのことを愛してくださる方がおられたら、わたしの、方向がわからないことや名前がなかなか覚えられないことや、そんないろんなことを、異常だというふうに言われたらきっと「そんなことを言うな」って腹を立ててくれると思ったのです。
 子供たちが今、どんなふうで、何に困っているかを、確認したり考えることはとても大切なことだと思う。”高度の異常”という言葉を不得意という言葉に、”正常範囲”を”得意”というふうに変えることは、一見、文字を変えただけみたいだけど、きっと全然違うのじゃないかと思うのです。得意とか不得意という言葉だった場合は、子供たちが何に困っていて、そばにいて、一緒にどうしたらいいだろうって考えていこうと思える・・。でも異常とか正常範囲というのだったら、こういうのはだめだから、”正常”に近づけることが大切という立場にたってものを考えてしまいそうな気がします。
 わたしたちはいつもこどもたちに人権教育というのは大切で、子供たちはみんな大切で、どんなふうだったらすぐれているとか劣っているとかは言えないんだよ・・みんな同じように大切でお互い様で助け合って生きているんだよって言っているのに、私たちこそがいつも子供たちを数字で評価してしまったり、分けてしまったりしているのだと思うのです。
 会の中で、会員のメンバーがどんなにどんなに子供たちのことが大好きかということが、すごく伝わってきました。子供たちが大好きで、子供たちの明日が、さらに素敵でありますようにと思う気持ちもみんな変わらないとも思うのです。だから、表に出てくる言葉にこだわる必要はないのかもしれません。でも、わたしはやっぱり、自分に置き換えてみて、自分が言われて嫌だと思う言葉には敏感でいたいと思いました。

 今、企業や福祉作業所で子供たちが実習をしています。企業や福祉作業所を訪ねた同僚から、子供たちがどんなふうにがんばっているか、一生懸命かという話が朝どんどん伝わってきます。
 初めての場所・・初めての人の中で、そして、不得意なことも抱えながら、それでも、子供たちは新しい仕事を覚え、こんなにがんばっている・・。泣きたいほどつらいこともあるだろうし、緊張で逃げ出したいほどだったりもすることでしょう。でも、そんな気持ちに負けないで、がんばってる・・なんてすごいのだろうと、思うのです。
 与えられた人生を懸命にそれぞれががんばる中に、異常とか正常範囲という言葉はきっとあたりませんよね。