心なごみませ  第17回

「ウンチ記念日」

山元加津子(在日石川人)

 ホームページを見て下さった方からメールをいただいたのを見て、私とゆーちゃんにとってとても大切だったウンチ記念日のことを思いだしました。
 ゆーちゃんとは3年間一緒にいることができました。そのころゆーちゃんは壁にウンチを塗ることや、髪の毛にウンチをつけるのが気にいっていたようでした。ウンチは汚くて臭いという思いからどうしても抜け出せずにいる私は、いったいどうしてゆーちゃんがこんなことを好きなのかなあと不思議でした。だからゆーちゃんの気持ちがどうしてもわかりたかったです。ゆーちゃんが好きなのはウンチをつかんだ感じなのかしら、それともウンチのにおいなのかしら?もし感じなら、粘土で代わりができないのかしら?ゆーちゃんはマジックも好きでいつも匂いをかいで鼻の頭にマジックをつけてしまうくらいだから、ウンチと違うにおいで代わりにはならないのかしら?私はきっとゆーちゃんの気持ちをすこしも考えていずに、ただウンチは汚くて臭いもの・・・という自分の気持ちだけをそのときに押しつけていたのだと思います。

 でも一緒にいてウンチのことやおしっこのことを感じられるのはうれしいことですよね。あーーこのごろウンチ出ていないけどどうしたのかなあとか、おしっこの匂いがちがうみたいけど体調子が悪いのかなあとか、なお、ゆーちゃんのことが気になって、お尻をのぞいてしまうなんて失礼かもしれないのだけど、のぞいて「あ、もうウンチそこまで来てる」ってウサギのウンチみたいなころころウンチをそっと手でマッサージしてほじくってみたり、すごく大きなウンチが出てきたら、なんて大きくてりっぱなんだろうって、自分一人で見てるのはもったいなくなって、同僚を大声で呼んで「ねえ、すごくりっぱなウンチが出たのよ。すごーいでしょう?」なんて誇らしげに言ったりして、気がついたらゆーちゃんのことが好きで好きでいられなくなっている自分に気がつくことができるのはウンチやおしっこのおかげだったのかもしれません。
 あるとき、ゆーちゃんがウンチを出せない日が続きました。ウンチがおなかにたまってどんどんおなかがふくれていきました。ゆーちゃんはウンチをしたくてたまらないみたいなのです。でも一度ウンチをしたときにお尻が痛くなって、それがゆーちゃんの心の中にとても恐いものとして残ってしまったのだと思うのです。それでゆーちゃんはウンチができなくなってしまったみたいでした。
 朝、施設で下剤の処置をしていただいていても、ゆーちゃんはウンチをすることができませんでした。したくなっているのを怖いという気持ちが無理に押さえてるのです。ずっと声をあげてかなしそうに泣いていました。もう叫び声に近いような声で泣いていました。すわっていることもできずにごろごろ床の上で動いて、なんとかウンチをせずにしようとしているようでした。
 大丈夫よ、恐くないのよとそばにいて、おなかをさすったり、頭をなぜたりしてもゆーちゃんは苦しむばかりでした。もう体をさわられることすら痛みにつながるようなのでした。ゆーちゃんの苦しむ姿を見ていて、私はゆーちゃんがウンチを今しないでいる理由が、ウンチをしたときの痛みだけではない気がしていました。いつもそばにいる私の「ウンチは汚くて臭いもの」だという思いがゆーちゃんに知らず知らずに伝わってしまって、ゆーちゃんがウンチをすると私が悲しむんじゃないかと思ったからではないかと思いました。ゆーちゃんを苦しめているのは私自身なのだと感じました。ゆーちゃんも不安でたまらないのでしょう。なんとか苦しみからのがれたくて自分の顔を左手でうちつけていました。左のほおは紫色にはれてしまって、目がみえなくなってしまうのじゃないかと思うほどでした。そしてそのゆーちゃんの苦しみは3日も続いたのです。もう学校中の壁にウンチを塗ってもいいから、どんなにウンチをさわっていてもいいから「どうかお願いだからウンチさん出てください」といったい何度願ったことでしょうか?
 少しでも気を抜いてしまうとウンチが出てしまうとゆーちゃんは思ったのでしょうか?夜もねむることができずにいるゆーちゃんのそばにいることが自分でもつらくてつらくてしょうがなくて、ただゆーちゃんをだきしめていた4日目に、おーーという不安げなそして悲しい叫びとともにウンチは出てくれました。まるで爆発のように吹き出すたくさんのウンチをこんなにいとおしくうれしく思ったのは初めてでした。ウンチはお部屋いっぱいに流れ出すのではないかと思うくらいいつまでもいつまでも流れていました。
 いつも出ることが当たり前のように思っていたウンチ。汚い、臭いと思っていたウンチは、本当はこんなにありがたく、うれしいものだったのですね。ウンチをしたあと疲れ切って、でもとても優しい安心した笑顔で、私の腕の中で眠っているゆーちゃんを見ていて、私は自分の中でウンチへの思いがすこしづつかわってきているように思いました。
 ウンチはやっぱり臭いけど、洗えばとれる、出てくれることがすごくうれしいのだと思えるようになったのです。けれど、こんなふうに言えるのは、学校にゆーちゃんとふたりでいつでも入れるシャワーと湯船があるからだと思います。そしてゆーちゃんと二人ゆっくりとすごすことをゆるしてくれる同僚や子供たちの温かい気持ちとゆとりがあったうえでのことだと思います。
 もしたくさんの子供たちと自分が同時に向かい合わなければならない状態であったなら、おふろなんかにのんきに入っているゆとりなどなかったならそんなことは思いもよらないことだったかもしれません。
ゆーちゃんがウンチを壁にぬったり、髪につけたりする理由は今もわからないままですが、私はそのウンチのことがあっていらい、ウンチを塗ることも髪につけることも、ゆーちゃんが生きるという上でとても意味のあることなのだと思うようになりました。自分を確かめるためであったり、気持ちをおちつけるためであったり、自分を確かめるためであったり、きっととても大切なことなのだと思いました。けっして自分の気持ちだけでこれはいけないことだと決めつけることはやめようと思ったのでした。