伊東市在住、おんな組組員・伊豆半島人を名乗る中山千夏さんの、身辺四方八方雑記!
伊豆新聞のシニア・ページに、2009年から毎週一回、連載されている長寿コラムを、同新聞のご協力で、おんな組用にアレンジ。今年からたっぷり転載していきます。
 
 
 

第14回 ウイルスと風俗

歌舞伎座前の弁松が店じまいするんですって。
1810(文化7)年、越後出身のあるひとが日本橋の魚河岸に「食事処」を構えた。食べ残しの「お持ち帰り」が人気となって弁当の販売を始め、三代目・樋口松五郎の時には、店の名も弁当の松五郎、弁松と改めて、1850(嘉永3)年、折り詰め料理専門店となった。以後、暖簾分けやら本家争いなど、老舗にありがちな紆余曲折をたどりながらも、弁松は今に至る。
そのなかで歌舞伎座前の弁松は創業150年を誇っている。時代物の大御所、池波正太郎のエッセイに登場したし、久保田万太郎はこんな句を読んだ。「弁松の煮物の味の夜長かな」。
それが、この4月20日、店を閉める。新型コロナにトドメを刺された、ということらしい。

やや感無量。弁松の弁当を食べたことはない、と思う。だから「やや」。弁松の弁当といえば、歌舞伎につきものの懐かしい風俗のひとつだった。客も役者も裏方も弁松の弁当を贔屓にしてきた。
私自身は歌舞伎とは縁遠い。シロウト衆はご存知なかろうが、私が属したのは商業演劇と呼ばれた分野であって、同じ芝居でも歌舞伎との間には深い川があった。ところが歌舞伎座となるとメッポウ近かった。なにしろ、そのすぐ裏に住んでいたのだ。
小学5年生の時。大阪は梅田の劇場街で少し名の出ていた子役だった私を、東京丸の内の劇場街のドン、劇作家の故・菊田一夫が気に入って、東京にさらった。以来、何十年も東京暮らしになるのだが、その始めが、桃源荘という旅館だった。歌舞伎座裏の桃源荘は、興業にやってくる大阪の歌舞伎役者や関係者の定宿だった。東宝株式会社が選んでくれたこの宿の一部屋で、母と私はほぼ一年暮らした。
ここから毎日、有楽町の芸術座に通ったし、やはり東宝の肝入で転入した銀座の泰明小学校にも通った。歌舞伎を観ることはとんと無かったが、歌舞伎座に翻る幟(ノボリ)を見ない日はなかった。

そんなわけで、歌舞伎座にまつわる話には、郷愁をそそられる。それに芝居見物の弁当にも。
自分がやったことはないけれども、食べながら観劇するひとたちを舞台の上から見ていた。江戸時代に生まれたこの風習は、商業演劇にも伝わっていて、貸し切りの団体客などがよくやっていた。生意気な小役者だった私は、がさごそ弁当をまさぐる音と食べ物の匂いが客席から立ちのぼってくると、いつも心中、舌打ちしたものだ。ちっ、ちゃんと観ろよ、こっちは一生懸命やってるんだ、と。
「観ながら弁当」の風俗は、少なくなったとはいえ現代にも残っている。東京では歌舞伎座と、新派の根城である新橋演舞場、それに相撲の国技館。それぞれに老舗の弁当屋が寄り添ってきた。
それが今、弁当を使う客を失っている。獰猛な新型ウイルスが根強い風俗の首まで締めている。おおいに感無量だ。

伊豆新聞に連載中 その564(2020年4月8日掲載)


弁松のホームページから

第13回 私の問題・社会の問題
第12回 ワラビとカンゾウ
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第10回 新型コロナウイルスお目見え!
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第8回 カードの脅迫
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第3回 「次世代」なるもの
第2回 道玄坂の日の丸 
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