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おんな組 志

おんな組いのちは<志>によって結ばれる仲間たちの集まりです。

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死刑をなくす女の会ニュース 2005年秋号より転載しました。

「性と暴力」 中山千夏

 この会を発足した当時、「なぜ〈女の〉会なんですか」と、よく聞かれた。1981年のことだ。会の名前を決める時、丸山友岐子さんと私は、こんな会話をした。
「女中心の会にしたいねえ」
「そうそう。ほっとくと男が牛耳るでしょ。あれがいやだ」
「ピラミッド型の組織で、会議も能率第一、声の大きい意見が通る、みたいになる」
「女の会、と打ち出しましょうか」
「それがいい。で、男の人はみんな、賛助会員。金は出せるけど、口は出せない、というの、どう」
「あっはっは、いいね、そうしましょう」
 それで、私はたいてい、こんなふうに答えていた。

「どれもこれも男中心、男流の運動ばかりでしょ。たまには女中心、女流の運動があってもいいと思って」
 その説明に、さしたる抵抗はなかった、と記憶している。水戸巌さんを筆頭に、たくさんの男性がこの「差別的な」地位に甘んじて、熱心に活動してくれた。このことを最近、いろいろな意味で感慨深く思い起こすことが多い。それというのも、昨年の夏、反暴力社会を目指す互助会〈おんな組いのち〉を発足したからだ。
 言い出しっぺの私、朴慶南、辛淑玉が組織名に〈おんな〉を冠したのには、当会の場合よりも差し迫った思いがあった。
 日本は暴力社会への道を驀進している。これを止めるには、今までと違った取り組みが必要なんじゃないか。思えば、国家的暴力である戦争と死刑、そして家庭内暴力の根源は、闘争と死を讃美する「雄々しい」男性的価値観に染まった男社会そのものである。この根底を覆して、融和と生を尊ぶ「女々しい」女性的価値観による社会を建設するところからしか、反暴力社会は実現していかない。この点を無視した平和運動、死刑廃止運動、反家庭内暴力運動は、ほとんど無意味だ。
 その差し迫った思いから、私たちは組織名に「おんな」を冠した。「女も男もおんなでいこう!」をキャッチフレーズにした。
 即座に反発があった。もちろん参加してくれた男性は数多い。けれども、当会の場合よりも躊躇があるのを感じた。反発は女からもあった。それで私はいろいろな感慨にふけったのだった。
 時代。八一年当時は、七〇年代ウーマンリブの余韻をまだ残していた。出版界でも「女」と付けばなんでも売れる、と言われていた。〈死刑をなくす女の会〉が比較的すんなり受け入れられたのには、そんな土壌が効いていたのかもしれない。
 それが逆転、「女」がついた本は売れない、と言われるようになったのは、九〇年代に入ってからだろうか。「女にこだわる」ことは時代遅れになった。確かに八五年、国連の男女平等条約への加盟を頂点として、政府は男女平等政策に乗り出した。女性の社会進出はますます進み、芸術や学問も性的偏見からの脱却を意識するようになり、大学では女性学が確立した。
 しかし、そこには肝心なものが欠けていた、と私は思う。それは、男社会の反省だ。女性を差別し抑圧してきたことについての、男性からの謝罪だ。これは、従軍慰安婦としてまた日本軍兵士として使われ殺されたアジア人に対して詫びることなく、国際社会への復帰を果たした日本国家と、まったく軌を一にしている。あるいは、先住民に詫びることなく、自由と平等の本家を演じてきたアメリカ政府と、軌を一にしている。それらの国家が、結局は同じ過ちから抜けられずにいるのは、反省と謝罪を欠いているからなのだ。
 同様に、女性差別への反省と謝罪を欠いたままきたあげくが、昨今のジェンダーフリー・バッシングであり、女性の個としての解放を保証する憲法二四条見直しの声であり、それとセットになった九条改定、すなわち暴力国家へのあからさまな傾斜なのだ。
 そして、「反暴力運動なら、男でも女でもいいじゃないか。性は無関係だ。こだわるのはおかしい」という反発は、まさにこうした時代から生まれた、と私は考える。そして暗然とする。
 けれども実は、よし、やった、という手応えも感じているのだ。思い返すと、死刑廃止を〈女の会〉が運動することには、当時、丸山さんや私が意識していたよりも深い意味があった。さっき言ったように、死刑など国家暴力の根絶には、女性的価値観の社会への転換が不可欠であり、それを欠いた運動はほとんど無意味なのだ。そこを私たちは、がちっと考えて表明できなかった。幸か不幸か、それがこのネーミングを単なる冗談に見せて、人々の反発を防いだのに違いない。
 だが〈おんな組いのち〉は、男社会の解体を意識して強く打ち出した。反発はそのせいに違いなく、だとしたら、私たちの主張は正しく表明できていることになる。そこに希望を見ている。
 ともあれ、反暴力社会という大きな枠組みのなかで、反戦、反DVと並べて反死刑をやっていけるのが〈おんな組いのち〉の可能性のひとつだ。特殊なことではない、反暴力なら当然のことなのだ、という土俵から、みんなの関心を呼び寄せていきたい。
 ぜひ、あなたも参加してください。あ、男性も「平等に」組員になれますよ。あはは。
  


ふぇみん (2005年8月5日)第2766号より転載しました。

「おんな組いのち 元祖世話人」……中山千夏さん

聞き手 じょうづか さえこ
撮 影 落合 由利子

人生変えたリブとの出合い

 舞台の子役、俳優、TVタレント、歌手、国会議員、作家…と、たくさんの顔を持つ中山千夏さん。
 そんな千夏さんが「これまでの人生ワースト」と言うのが、TVタレント時代だ。
 「芝居の世界は、男女の構成比がほぼ半々で、性差別も、年齢差別も、学歴差別もない実力本位の世界。そんな中ですくすくと育ってきた私が、テレビのワイドショーの司会をするようになったら、百八十度違う世界だったんですね」

 ディレクターも技術者も男ばかり。メーンの司会者は男性で、女性はアシスタント。
 「出番を待ってるとエライ人がお尻をさわるなど日常茶飯事だし、女性の顔や容姿のことが話題になる。オジサンたちは銀座の高級クラブや、キャビアを食べに連れて行ってくれるのだけど、ひとたび議論で言い負かしたりすると『おまえ、それじゃお嫁にいけねぇぞ』と、みんなでゲラゲラ笑う。『歴史を見てみろ。ナポレオンも、アインシュタインもみんな男だろ』などと言われると、だんだん女であることに自信が持てず、不安になってくる…」
 そんなときに出合ったのが、ウーマンリブの運動だった。
                 * * *
 「3人くらいのちょっと怖そうな女性がやってきて『魔女コンサートをやるから司会をしてほしい。ギャラはなし』と言うんですね。さらに『株主制にするので、100万円出してくれ』と言う。そのころ、母が財政をすべて握っていたのですが、生まれて始めてお金のことで母と喧嘩して、80万円を出資しました」
 お金だけ出すのは嫌だと千夏さんは「新宿・ホーキ星」を拠点としたリブの運動にかかわっていく。
 「この出合いが、私のその後の人生を変えました。芸能界でも、会社のお茶くみでも、場所や形は違っても、あらゆるところで女たちが同じ苦しみを味わっていることを知った。オジサンたちはかわいがってるつもりだったのだろうけど、それは対等な人間としてではなく、『自分に従順な飼い猫』としてのものだったこともわかりました」
                 * * *
 男の価値観を自分の価値観にして女をバカにする「女王蜂症候群」(サッチャーが代表格らしい)にもならず、どうせダメなんだから男でもだまして生きていくかと投げやりにならずに済んだのは「リブの女たちとの出合いがあったから」と言う。
 歴史や教育を紐解くことで、男社会の価値観が女性の尊厳を奪ってきた構造も見え、漠然とした不快感の正体がつかめた。
 千夏さんが、革新自由連合から出馬し、参議院議員になったのは、80年のこと。
 「根本の政治から変えなくては…と、うっかり出ちゃったのだけど、そこは、女性差別、学歴差別、年齢差別の巣窟みたいな所でした。素人集団ではとても太刀打ちできない世界。6年間で疲れ果ててしまいました」
 どんどん右傾化していく政治。イラクへの攻撃。自衛隊派遣…。ガックリしつつも、唯一の希望は、数多くの市民が反戦運動に集う姿だったという。
 「政府はひどくても、人々はむしろ正しくなっている。これはいけるかもしれないと思った。そのとき『おんな』をもう一度前面に出さなければダメだなぁと思ったんですね。暴力で物事を解決しようとする男的価値観を撲滅しないと、戦争も強かんもなくならない」
 リブのころと違い、フェミニズムがファッション化したり、学術対象になっていることへの違和感もあった。
                 * * *
 2004年8月、朴慶南さん、辛淑玉さんと一緒に「女も男もおんなでいこう! 非暴力社会を産み出そう!」という「おんな組いのち」を旗揚げした。
 「憲法9条と24条の見直しは、戦争ができる国づくりという意味でセットになっている。個人より国家、女より男という家父長制社会が戦争を起こすことは、若桑みどりさんの『戦争とジェンダー』を読むとよくわかります」
 「個人の自由が何より好き。それを奪う最大のものが戦争よね」と語る千夏さん。
 「これまでの人生のベスト1は、いま。だって、自分の生活のあらゆる主導権を自分が握っているから」
 


季刊『僧伽』(2004年10月31日)より転載しました。

「おんな組いのち」発足・・・・・辛淑玉

 友人のパクキョンナムが、「すごぉ〜」と声をかけてきた。
 キョンナムは、私の友人の中でも三本の指に入るくらい、存在そのものが「色っぽい」。
 挨拶でニコッと笑うだけで、周囲がポワーッと桃色になって骨が抜かれる感じがする、と言えばご理解いただけるだろうか?
 当人はいたってサバサバしていて、正直、色気とこれほど遠い性格もないだろうと思うくらい気骨がある。社会的活動をしようと声をかけた著名人がみんなびびって逃げたときも、振り向けばそこにキョンナムが必ず立っていた。修羅場に強く、暴力には笑顔と口とハッタリと気転で対し、決してあきらめない。その生き方は、「根性」とは彼女のためにある言葉だと思ってしまうほど。

 そのキョンナムが、「ちなっちゃん(中山千夏)と会ってぇ」と、とろけるような笑顔で言うのである。
 これは何かあると直感した。

       ※     ※

 「女が声を上げようよ」と、ちなっちゃんは小僧のような顔で私を見た。
 横では、ウサギのような目をしたキョンナムがそうそうとうなずいている。
 国境を越え、民族を越え、ここで生きている者が手を取り合う。共に生きていく。そのための活動をやらないかとの提案だった。

 評論家の加藤周一さんと対談したとき、加藤さんは、日本の市民運動は小さすぎて権力を倒す力にはならないが、反面、数が多くて権力が全部をつぶすこともできない、1999年以降将棋倒しのように戦争への道を肯定する法律ができたが、これから憲法改悪という正念場に向かって今までのようにうまく騙せるかどうかはわからない。必ずどこかで失敗するだろう。そのとき、市民運動がどこまで声を上げられるかが勝負だ、といった趣旨の発言をした。

 たしかに、戦争を肯定する人を説得していたら千年あっても足りない。そんな時間は残されていない。いまやるべきことは、同じ志を持つ者と早く手をつなぐことだろう。そうすれば、暴走に対する包囲網は確実にできると確信した。
 反戦、反暴力を言う人はとても多いが、なぜか分断されている。そこが支配する側の思う壺なのだろう。

 ちなっちゃんとの話は早かった。

 組織は、ヒエラルキーではなく、共に助け合う互助会とし、互助会名は「おんな組いのち」と永六輔さんが命名した。

 呼びかけ文は、中山千夏。
『おんな組いのち志。
 私たちは今、日本に住んでいる。
 生まれた時から住んでいるものもあれば、途中から住み始めたものもある。
 いずれにせよ、ここ、この日本に在る、という点で、まぎれもなく私たちはかけがえのない仲間だ。だから私たちは、今、かけがえのない仲間として、国家を超えて手をつなぐ。
 私たちは、「日本国籍が無い」という理由で人々が苦しめられるのを許さない。
 日本で生活するものすべてに、人間としての同等な権利と福利を要求する。
 また私たちは、「日本国籍がある」という理由で人々が苦しめられるのを許さない。
 国民に人殺しを強要するような法律は、人間の名においてぜったい拒否する。
 そもそも私たちは、ひとつひとつのいのちを深く慈しむものだ。
 だからこそ、いのちをはばみ破壊する暴力を心から恐れ憎む。
 しかし私たちは、逃げまわらないと決めた。
 妻や恋人や子どもへの男性の暴力を、私たちはやめさせる。国家による暴力にほかならない戦争と死刑を、私たちはやめさせる。
 おんなの名にかけてやめさせる。
 それが、この、つないだ手を流れる私たちの志、私たちのいのちから湧き出た志なのだ』

 テーマソングは小室等。記者会見等、イベントの仕切りは永六輔。
 そして、ニュース配信はフリージャーナリスト集団「アジアプレス」が担当し、ハガキ通信、インターネット、携帯メールといった世代間通信手段をミックスする新しい情報発信を開始することになった。
 火がついた、とは、こういうことを言うのだろう。女たちの動きは早い。それは、紛れもなく危機感の現れだ。
 以前キョンナムが、「私たちは炭鉱のカナリアよ」と言ったことがある。
 確かに、私たちはカナリアかもしれない。
 しかし、そう簡単に殺されるカナリアではない。

 ここで、会について簡単に説明しておく。

★なぜ「おんな」なのか?
 「やられたらやり返せ」「泣くな」「負けるな」「死を賭して闘え」と男たちを強制してきたのが男文化です。問題の解決に暴力を用いることが、反省されるどころか、時には称賛さえされる文化。それから抜け出さない限り、生来、筋肉の少ない者は安心して暮らせないし、戦争も絶えるわけがありません。
 そのような男文化では、優しく気弱だったり、非戦平和を唱えたり、なんでも話し合いで解決しようとする男は、「女みたいだ」と揶揄され、爪弾きにされてきました。しかし、思えばその「女」とは、つまるところ「非暴力」にほかなりません。男文化の暴力に対する女文化の非暴力。その意味あいをすくい取り、私たちは「非暴力=おんな」と位置づけました。
 つまり<おんな組いのち>の「おんな」とは、生き方として非暴力を選びとること、あるいはそう決意することなのです。だから男性にも、その意味で大いに「おんな」を自称していただきたいのです。私たちとともに。

★組レジについて
 国籍がどうであろうが、私たちはみんな今、日本で暮らしている、日本に存在している、その事実の上に手を結び合う証として、私たちは「在日」を自称することにしました。
 「在日○○人」の○○には、自分自身にしっくりくる現実の地名・民族名・国名を入れることにしました。いったい自分は何人なのか? ○○を選んでいるうちに、きっと誰もが多少とも、国や地域や民族と自身の自己認識について、いろいろなことを考えるだろうと思います。そしてその経験は、国家を超えた連帯にとって、有益なものだと思いました。
 だから組員はみんな、「在日○○人」を称することにしたのです。これを組レジ(register=戸籍の略)と呼ぶことにしました。

★組作り
 非暴力的な組織を目指した、やや実験的なやりかたをします。
 執行部に類するものは置きません。すべての活動は、全面的に組員個人の良識と責任感を信頼するうえに成り立ちます。
 組員は誰でも、<志>に沿った活動であれば、その責任において他の組員に呼びかけ、組の名を掲げて自由に活動することができます。また、当たり前のことですが、ある組員が主催する組活動に疑問を持った組員は、誰でも主催組員に疑問を呈し、意見を言い、議論することができます。
 そのようにして非暴力的でしかも活発かつしなやかな組織の成長を目指します。

 「女の腐った奴」と言われる男たちこそが時代を変えていく。ダメな男は「男の腐った奴」と、正しい日本語を使いましょう。
 賢い男は、女と生きる。
 化石男は、女を支配しようとする。
 腐った男の成れの果てが、DV。
 そして腐った国家の成れの果てが、死刑を執行し、軍事力を行使する国家なのだ。
 だまされてはいけない。

 振り向けば、隣に笑顔のキョンナム、隣に小僧の千夏。あー、毎日が戦いで楽しい!


「市民の意見30の会・東京ニュース」2004/12/1・第87号より転載しました。

「おんな組いのち」でいくことにした・・・・・・・中山千夏

「あのね、それは愛国心とは違うと思うよ」
 と私は言った。2004年4月2日夜。福井県小浜市の民宿。翌日、八代地区で行われる興味深い祭りを見るために、私はそこに泊まっていた。誘ったのは朴慶南。共通の友人である考古学者の佐古和枝も、古代史学の大御所、門脇禎二さんを伴って同行していた。
 慶南は、書くことが最も苦痛、という奇妙なエッセイストだ。いや、エッセイストというのは、そう言うほかないから掲げている肩書であって、実態は「人間関係構築家」とでもいうものではないかと思う。呆れるほど方々に旅して人と会い、感動の人間関係を構築し、結局その感動を広めたいばかりに、うんうん苦しんで文を書き、出版している。
 その民宿も、主と知り合った慶南が手配したものだった。夜、主も加わっての気楽な酒宴になった。そこには、主の友人で、隣接する泊地区からやってきた大森和良さんという小学校の先生も加わっていた。
 話が門脇さんの戦争体験から「拉致事件」に及んだ。民宿の主、浜本さんはいわゆる「拉致家族」の一人であった。
 国は何もしなかった、と浜本さんは言った。妹たちはさらわれたに違いない、なんとかしてくれ、と私らは何年も言い続けた、しかし、国は何もしてくれなかったのだ、と。
 話は飛ぶが、翌日、私たちはそっくり同じ言葉を、小学校の先生、大森さんから聞くことになる。1900年1月、現在の小浜市泊に難破船が漂着して助けを求めた。朝鮮の船だった。村人は総出で乗員93人を助け、分宿させて介抱し、1週間後、無事全員を故国に送り返した。泊区の旧家には、帰国した韓人から送られた篤い礼状が2通、今も残っている。日本帝国が「日韓併合」を強行したのは、その10年後のことである。
 忘れられ消え去ろうとしていたこの話を蘇らせた一人が、1995年に発足した「泊の歴史を知る会」で活動していた大森さんだった。彼らは委員会を結成し、百年後の2001年1月、民間の力だけで海辺に記念の石碑を建て(碑文は「海は人をつなぐ母の如し」)、周囲に朝鮮の国花ムクゲを植え、韓国民との民間交流に取り組み始めた。同時に出版した絵本『風の吹いてきた村』には、村人と韓人との感動的な別れのシーンが綴られているが、それは1990年代後半に大森さんが発見した文書、当時の泊区長による記録(「韓人遭難漂着歴史」)ほぼそのままだ。
 村を案内してくれながらの大森さんの話のなかに、その言葉はあった。彼は言った。私は小さいころ、祖父からよくその話を聞かされていました。その時、決まって祖父は言ったものです。国は何もしなかった、と。
 泊区長は当然ながら、韓人救済の事実を即刻、国に報告したが、国がしたのは、それを咎めない、無視する、ということだけだった。結局、93人もの遭難者を介抱し養い、「親子のように涙を流しあいながら」故国へ送り出したのは、徹頭徹尾、村人の労力財力知力、つまるところ民間力のみだったという。大森さんが、あくまでも民間による日韓交流にこだわり、名刺に「地球郡アジア村字泊」と記すのには、これだけのわけがあったのだ。
 私たちがそれを知る前日、民宿の主、浜本さんが言ったのだった。国は何もしてくれなかった、一般の人たちが騒ぎだすまで、何もしなかった、と。そして、こう続けた。私は思うんだが、やっぱり愛国心の教育は大事じゃないか。あの時、結局、何が国を動かしたかといえば、一般人の愛国心だった。愛国心から人々は、外国に日本人を拉致されて黙っているのか、と憤り、それが国を動かしたのだから。
 「あのね、それは愛国心とは違うと思うよ」
 と言うことができたのは、一杯入っていたからだ。素面なら「拉致家族」の威厳の前に沈黙していただろう。その時の私は、拉致家族であればこそ、わかって貰いたい、と思って、こんなことを力説した。私には愛国心はない。それでも拉致には腹が立つし、当人と家族の状況に胸が痛む。解決に寄与したいとも思う。それは隣人愛からだ。そして愛国心より隣人愛のほうがいい、と私は思う。愛国心はおうおうにして国家に悪用されて他国民を傷つける。隣人愛にはその危険はない。浜本さん、隣人愛でいこうよ。
 いつも聡明な光を双眸に宿らせている浜本さんは、注意深く私の言葉を聞きながら、そうか、そうかなあ、うん、考えてみるわ、とそう応じ、話は自然にほかへ移っていった。
 それから2泊3日の旅の間に、慶南、佐古と私は意気投合してたくさん話した。それが運動のアイデアへと収斂したところには、あの言葉が確かに大きく響いていた。国はなにもしなかった。そうだ。国はしない。ところが、時に国は「する」。当時、私の心にしんしんと積もっていた怒りの源は、大多数国民があれほど反対表明したにもかかわらず、イラク爆撃を支持し派兵した「民主主義」国家群であり、焦燥の源は、それを止められなかったことだった。また、その頃、私を深々と憂鬱にさせていたのは、女性的価値、女性原理、といったものが流行遅れの棚上げにされてゆきながら、女性の社会進出、男女共同参画といったものがトレンドに実行されてゆくことであり、私の焦燥は、そのために女たちが男性原理社会を守る壁となり、戦争やDVの、あろうことか暴力加害者として(知識階級では意識的に、多くは無意識的に)立ち現れつつあることだった。そう、私はへこんでいた。そこへ、「国はなにもしなかった」証言と、その解決に愛国心を思う浜本さんの煩悶との衝撃がどんときて、私にやる気をおこさせた。加えて、まるで70年代リブの現場に立ち戻ったかのような女同士のお喋りは、よし、「おんな」でならやれる、という確信を私にもたらした。よし、これでいくぞ!!
「人間関係構築家」慶南の手配で、辛淑玉(人材育成技術研究所所長)と3人、寄り集まったのは6月。経営者を自称する淑玉は、賢く情熱的な実務家だ。彼女の参加で、私たちのアイデアは見る見る実体化していった。私たちは猛烈に動き、口コミでの参加者が100人を超した8月20日、「おんな組いのち」は東京に旗揚げした。
 男性的なピラミッド型の、代表決断命令一下全員突撃式は絶対イヤだった。慶南、淑玉、私が、言い出しっぺの責任をもって「元祖世話人」を名乗り事務局を運営するほかは、各自自由にやっとくれ式がいい。また、煎じ詰めてばかりで痩せ細り分裂し、権力には無害なチビ団体ばかり、という原状に、もう一団体加えるのも徒労だから、そこそこでかい組織を目指そう。それなら自分たちの精神衛生のためにも歌舞音曲色物こってり、冗談たっぷりでいこう、となった。その結果、「ようわからん」ところができたかもしれないが、要するに「おんな組いのち」とは、
 「男性原理によるあらゆる暴力、とりわけ国家の暴力(戦争、死刑)をやめさせる。女性原理を確立し活用することによって、非暴力社会を実現する。その志を持つ人が、世界的な逆風のなかで己の志を維持し、同志の存在を確認し、志実現の力となるために寄り集まり、情報交換や活動を共にする互助会」
 である。多層を貫く情報交換のために、淑玉言うところの「メディア・ミックス」を、目指す。ホームページ公開、希望者へのケイタイ100文字通信ニュースはすでに開始しており、正式稼動の1月からはメールニュースとハガキ通信が加わる予定だ。そのほか元祖世話人企画による東京での勉強会を年数回、予定している。互助会は員数が多いほどよく機能する。地域組の立ち上げイベントは、12月14日に札幌、15日に旭川、16日に函館、また来年5月には米子で行われる予定。とにかく当分は存在を知らせて参加を募ろう。テレビ番組も持とう、と淑玉が言う。ええっ、私、出るのはイヤだよ〜、と思わず言ったら、淑玉が返した。「ダメです。出るの。私はおんな組のためなら、なんでもします」。
 一度、HPを覗いてみてください。パンフレットを請求してください。待ってます。


「ACT」2004/9/27・第226号

「女性展望」10月号

「母の友」11月号

おんな組いのちの発足イベントの紹介記事です。
■朝日新聞 2004年8月19日付

■週刊金曜日 2004年8月27日号

■ふぇみん 2004年9月5日号