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2007年9月14日

5月半ばに、李政美さんとともに1月につづいてソウル郊外にある「ナヌムの家」を訪問。戦争中、日本軍によって“慰安婦”を強いられたハルモニたちに、2月に東京で行った“支援コンサート”の収益金を渡して交流のひとときをもった。

7月1日、「ふくしま県女性『9条+24条』の会」で講演。タイトルは「私以上でもなく、私以下でもない私」―戦争・暴力・差別から命の尊厳を取り戻そう―。9条だけでなく、男女の平等をはっきり規定した24条を変えさせてはならないと、さまざまな立場の女性たちが結集した会で「おんな組いのち」もアピール。地域でがんばっている女性たちのパワーがうれしい。

7月末から8月いっぱいは、石川県輪島、大分県内の各地域、鳥取、埼玉、神奈川・・・と、主に学校の先生やお母さん(お父さん)たちを対象に講演。「子どもたちに平和な未来を」という思いをこめた。埼玉の主催者がつけたタイトルは、「私以上でもなく、私以下でもない私」(岩波書店)の文中の言葉が使われていた。
いままででいちばん長い(!)演題だ。
「見上げるのは空でいい、見下ろすのは大地でいい。横を見ればあなたがいて、みんな並びつながり合っている」。

2007年2月10日

あまりのご無沙汰に気遅れする心をビシバシと叱咤し、ものすごうく久しぶり、今年初めて!の「今日のキョンちゃん」です。

札幌、長崎での講演会、「ぼく、おんな組の組員です」と話しかけてくれる男性がつづき、なんとも嬉しい気持ちに。
もちろん女性組員との邂逅にも、うんと励まされる。

長崎は、17年前の1月18日(本島等元市長が議会の答弁で、天皇の戦争責任に言及したことで右翼に撃たれた日)以降、毎年行われている集会での講演だった。
80歳を過ぎた本島さんが冒頭で、ユーモアを混じえて挨拶された言葉を紹介したい。

「ボケていたのか、私は天皇に戦争責任があるということを言ってはいけないとは知らなかった。
世界のりょう見だと思っていた。
いま難しい状況にある。日本全体が総堕落している。これをきちんと戻すための努力をあらゆるところでやらなければいけない」
口調は柔らかだったけれど、ドッシリと胸に響く言葉だった。

長崎市内には、市民が作った「岡まさはる記念長崎平和資料館」というところがある。
朝鮮人(韓国人)被爆者の実態や証言の他、アジアに対する日本の過去の歴史が展示されている。そこで出会ったドイツ人青年の話を次回に(すぐ書きたい)。

2006年9月6日

なんと言っていいかわからないくらいのご無沙汰です。怒る怒る“かつてのキョンちゃん”ならぬ“きょうのキョンちゃん”を。

朝鮮半島は、男系社会で、家を継ぐ男子の誕生がヨメに課せられた最大の努めとされてきた。身近に体験してきたことだが、私の母をはじめ多くの女性たちにのしかかる精神的重圧と、言葉に尽くせないほどのつらさは、生半可なものではなかった。
女子が産まれるとガッカリし、男子が産まれると「ヨカッタ、デカシタ!」と喜ばれる社会のありようは、間違いなくおかしいのではないかとつくづく思う。

前回から、ずっと書きそびれていた小室等さんとトーク・ライブをしたときのエピソードを紹介しておきたい。対談のなかでの小室さんの言葉である。
「コンサートのときなどにね、主催者(スタッフ)が男性たちならば、タイムスケジュールやマイクの位置、進行等々、ピシッと正確に決まってできる。
一方、女性たちが主体でやると、いろいろな場面で、ちゃんとできないことが多い。
それは、機会が少なくてやり慣れていないということもあるんだろうと思う。
ただ、女性たちがやった場合には、大事なものがこぼれ落ちないんだよね」
期せずして、会場の女性たちから拍手が沸いた。
「大事なものがこぼれ落ちない」。
これは、いい言葉(表現)だと思った。
いま、いっそう強まりつつあるこの“男社会”(おんな組の価値観と対極にあるもの)で、大事なものがこぼれ落ちつづけている。
いかん。このままでは取り返しつかなくなっちゃうよ。

2006年7月7日

あまりにも長くご無沙汰してしまったので、気後れしつつも、七夕に後押しされて久しぶりのお目見えを。
やや前になってしまうけれど、「本の日」にちなんだ講演会「おんな組」組員である小室等さんと対談をした。
そのなかで小室さんが語ってくれた話を紹介したい。
最近つくづく小室さんが省みてご自身で思うことは、「男は悪い!」。
朝起きたら、まずおつれあいに「ごめんなさい」と謝ってしまうとか。「何かやったの?」と聞かれるというが、個々のことではなく、とにかく「ごめんなさい」とずっと言いつづけていきたいという。
世の男たちの悪さを、小室さんが一身に背負っている感じがなきにしもあらずだが、ホントに謝ってほしい男どもは、あちらこちらで恥ずかし気もなくエラソーにばっこしてるんだけどね。
印象に残った小室さんの話を次も。

2006年5月10日

前回のつづくから、やっとこさのつづきです。連休の終わりごろひどい風邪で寝込み、やっと快復。
暇さえあれば倒れている虚弱な我が身にメゲてしまうけど、クレドヘヤジ(それでもやらなきゃ)、クレドサラヤジ(それでも生きていかなきゃ)と、朝鮮語で活を入れる。
ホントにそうだもんね。いまの世間の状況を見てると、とてもメゲてなんかいられない。

メーデーではスピーチ(連帯あいさつ)を。現役の労働者である両親や、私が子どものときから身近に接してきた底辺労働者の存在にふれつつ、自分が置かれている立場からのメッセージ。ところで、組合も男性社会であることは間違いない。過去、スピーチするのは男性ばかりだったという。
メーデーに参加していたという女性から、「女性のスピーチなんて、驚いた。うれしかったです」という言葉をもらった。こんな言葉が出るほど、日常的に女性は後ろに蔭にとおいやられている。根っ子のところから変えていかなきゃいけないと、つくづく思う。

「4・3事件」のつづき。長く封印されてきた「4・3」の事実解明にようやく光が当たりはじめたのは、金大中政権(1998年)になったころからだが、それでも虐殺の証言をまとめた映画「レッドハント」を作った監督がその年に逮捕されるといった状況はつづいていた。ひどい話だ。
2003年、ノ・ムヒョン大統領が済州島民へ公式謝罪。
犠牲者の追悼、真相究明、資料館・平和公園の建設などが進められるようになった。
今年の4・3慰霊式に、大統領は初めて参席。
「権力の間違いを明らかにしてただしていかなければ・・・」といった言葉を聞きながら、涙をぬぐう人の姿が多く見られた。
済州島の人たちの痛みはどれだけ深いことか。
前日に行われた慰霊コンサートのラストは李政美(イ・ジョンミ)さん。彼女の歌が大地に沁みこんでいくようだった。
今回の済州島への旅で強く感じたことの1つは、「4・3」の首謀者でもあり、いまなお痛みを強いる米国に対する済州島の人たちの厳しい視線(反米感情)だ。
それこそ根っ子から米国との関係をただしていかなきゃ、ということだろう。
これは日本においても言えることかも。
「済州島4・3事件」。これから、私なりに事実をきちんと知っていこうと思う。

2006年4月26日

「済州島に行ってきまあす」のあと、ご無沙汰のまま。(ごめんなさい。ちゃんと帰ってきています)。
春らんまんの済州島は、桜や菜の花、椿、れんぎょうと花ざかり。風と石と女が多いから別名三多島のいわれどおり、強い風に驚き、いたるところに積み上げられた石の山に目を奪われる。

女が多いというのは、「4・3事件」で男がたくさん殺されたため(いまは男性も当たり前にいます)。
「4・3」の当事者だった作家の金石範さん、詩人の金時鐘さんの作品や関係者の話などをとおして知っていた「4・3」だけれど、現場に立つと、そのむごさが足元から伝わってくるようだった。

1948年4月3日、米軍政下、南の単独選挙に反対する島民たちへの無差別虐殺。犠牲者は8万人とも言われているが、いまだ正確な数はわかっていない。
現地の高校の先生に案内されて、虐殺現場を歩く。
北村里(プッチョンリ)小学校へ。子ども70人を含む400人以上の犠牲者が出たところ。草むらには、石でまるく囲われた盛り土が並ぶ。遺体が埋まっていると思われる場所だ。
パルチザン(アカ)とされた人たちが埋められているという雑木林へも。いまなお、彼らは闇に葬られているということが一目瞭然だった。
つづく。

2006年3月31日

寒い。「春よ来い、はあやく来い」と思わず口ずさんでしまう。知覧での話をもう一つだけ。
映画「ホタル」を生んだ富屋食堂へ。当時の場所に完全復元されていた。
出撃を控えた朝鮮人の特攻隊員が、食堂のおばさん、島浜トメさんにアリランを歌ったという小さな部屋があった。もしも家族が見つかったら渡してほしいと頼まれたキンチャク袋も。戦後、トメさんが韓国の家族を探したというが、難しかったようだ。
アリランを歌ったその思い。名乗れない家族のその思い。時を越えていまなお悲し過ぎる。
それにしても男たちが、人を殺すための戦争に駆り出されていくサマは、なんとも可哀想であり、またとてつもなく怖いものがある。
「男たち、戦争とめてよ」と声を大にしても言いたくなる。
次回は沖縄での話を。
ところで、明日から2泊3日の予定で韓国の済州島へ、李政美さんと一緒に「四・三事件」の慰霊コンサートと慰霊式に。行ってきまあす。

2006年3月21日

春分の日。昼と夜の長さが等しい日。辞書を引いてみたら、「もとの、春季皇霊祭に当たる」と出ていた。ナンダベ。
春とはいうものの、風は冷たし。コホン、コホン(セキがとれません。三寒四温、風邪に気をつけてください)。
ご無沙汰しました。いかんなあ(やや反省)。「今日のキョンちゃん」ならぬ先回の「いままでのキョンちゃん」のつづきを。

知覧の特攻平和会館には、1036人の特攻隊員たちの写真(遺影)が壁一面に並んでいた。なかには17歳の少年も。写真の下には、家族や知人への別れの手紙や遺書が。
一人ひとりの存在とその真情が胸に響いてくるものの、彼らの写真を遺影にさせたもの、そうした文面をしたためさせたもの、死へと追いやったものは何なのか、だれなのか、それに対してキッチリ向き合うことが大切だと思った。
たくさんの特攻隊員の中から、朝鮮半島出身者たちの名前、年齢、出撃した日を書き写した。なんだか、みんな遠い親戚のような気がして・・・。

2006年3月1日

1919年、植民地下(1910〜1945年)の朝鮮で独立運動が起きた日だ。朝鮮全土で200万人が立ち上がった。
3.1を朝鮮語でサミルと言う。サミルという響きには特別なものがあり、私にとって心が引き締まる日だった。

この4年後に関東大震災があり、6000人とも7000人とも言われる朝鮮人が殺された。
朝鮮で3.1独立運動で抑えつけた日本の高官が、震災時は、日本で治安と警察の責任者をしていた。怖いつながり。
知覧の特攻平和会館で、五人の朝鮮人特攻隊員の写真を目にした。いっそうのむごさを感じて、仕方なかった。
今日一日、ずっと冷たい雨が降っている。春はそこまで来てるはずなのに。
知覧の話は次も。

2006年2月28日

2月5日、町田での講演会を終えた足で鹿児島へ。看護士さんたちを対象に2時間余りの講演を。いろいろなところで話をするなかで、とりわけ反応がイキイキと返ってくるのが、看護士さんと保育士さんたちが聴き手である場合だ。
命に近いところで仕事をしているからだろうか。女性がいっぱいということも大きい(120人くらいのなかで男性は2人だった)。
男性と違って、女性は感性がのびのび豊かだと、またまた実感する。当然この私も、会場の女性たちとともに響き合ってノリノリに。
終了後、特攻基地の知覧に向かう。
案内を申し出てくれた担当者の車で約1時間、一度訪れてみたいと思っていた場所だった。つづく。

2006年2月27日

明日で2月も終わり。アレヨ、アレヨという間に過ぎ去った2月の日々。あっちこっち駆け回り、しゃべりまくりのその合間に、ヒマをみては寝込み風邪をひき、バタバタ、ペラペラ、バターン・・・のなかで、このコーナーもご無沙汰してしまいました。
鹿児島や沖縄での話、その他モロモロのことを「いままでのキョンちゃん」ということで、明日から小出しに報告していきたいと思っています。
ハイ。

2006年2月3日

今日は節分。昔、豆まきをしたことを思い出しました。去年は、デパートで並んで買った太巻を食べたっけ。
久しぶりの「今日のキョンちゃん」です。
あれから、あちこち話をして回っています。
今年も聴衆の前に立つと、よどみなく、止まることなく言葉が溢れでてくることに変わりはないようです。
明日も、東京の町田で開かれる「まちだ男女平等フェスティバル」で講演の予定。テーマは、「輝こう!一人ひとりがその人らしく」。
おんな組の宣伝(主催者からの希望アリ。ありがたい)とチラシを配ってきます。
直前でごめんなさい。もし近くの方で興味があれば。
◆2月4日(土)<103012:00>
 町田市民フォーラム3階ホール TEL 042-723-2908
 町田市原町田4−9−8
 小田急線町田駅 徒歩8分
 JR町田駅   徒歩5分

5日は鹿児島で。特攻の墓地、知覧にも行ってきます。報告はまた。
明日、あさっては寒そうです。体調に気をつけましょうね。

2006年1月18日

昨日は、阪神淡路大震災から11年目、宮崎勤被告の最高裁判決、ライブドアへの強制捜査、ヒューザー社長の国会証人喚問と、大きなニュースが集中した日だった。
証人喚問の間、手は作業しながら耳はテレビに。安部晋三氏の名前が出てきたが、政治家とのつながりがもっと明らかにされてほしいと思いながら聴いていた。
証人喚問の日と強制捜査の日を重ねてきたことに疑問をもつ。
以前も大事なことを報じなければいけないときに、ライブドアによるフジテレビ買収のニュース一色だったことを思い出す。

16日がしゃべり始めと以前書いたけれど、19日のまちがいだった。間違えに早く気がついてよかった。「会場に行ったら、だれもいなかった」にならずにすんだ(過去に体験アリ)。
20日は横浜の保土ヶ谷で人権啓発講演会。――3:00〜5:00 
保土ヶ谷公会堂講堂(相模線『星川駅』から徒歩5分)――
もし近くの方で、時間があえばどうぞ。
21日は、相模原市教育委員会の指導主事の人たちへの研修会。
ひきこもりの日々から、出歩き(しゃべり歩き)の日々へ。口は、果たしてうまく動いてくれるだろうか。(「心配ない」という声がアチコチから聞こえてきそう)

2006年1月14日

外は冷たい雨。ありがたいことに外出の用事はなく、終日家のなかで原稿書き。
アムネスティ主催の「子どもの人権」作文コンクールの優秀作品を1冊の本にまとめるという企画があり、そのなかの1つについて解説を書くことになった。
電話で依頼があったとき、ためらっている私に、担当の女性から「キョンナムさんの本を読んで、お願いしたいと思ったんです」という決めセリフが。本を読んだという言葉に私は弱いんです。
結果、「ハイ、やります」。
その女性が読んでくれたという本は、人権のことをテーマにしたあの本かな、この本かなと頭に浮かべつつタイトルを聞いてみたら、なんと『なんとかなるよ、大丈夫』(小学館)というお笑いの本。
内容は、「突然サシ歯が飛んで、相手の紅茶カップのなかに落ちた」といった、人権とはほど遠いドジ集である。
よくもマア、あれを読んで原稿を頼もうという気になったもんだと担当者に感心しつつ(あきれつつ)、真面目に解説分を書いた今日でした。

2006年1月12日

夕方ウチを出る。空にはポッカリお月さん。足どりも軽やかに駅へ。久しぶりに歩いて、足もなんだかうれしそう。
親しくさせてもらっている韓国、「開かれたウリ党」の金希宣(キムフィソン)議員が急拠来日したとのことで、丸の内線・中野坂上駅横の焼肉屋
(「にんにく赤唐辛子」)へ。
友人の安さんがやっているお店で、金議員が東京に来ると、いつも仲間たちで集まって「囲む会」をしている。
彼女は20年ほど前、女性の駆けこみ寺「女性の電話」を設立し、女性25歳定年制撤廃(55歳に引きのばす法律改正を勝ちとる)など、韓国の女性解放に尽力してきた女性である。
民主化闘争のなかで、投獄されても、獄中で果敢に闘った経歴の持ち主(「やるっきゃない―かっとびアジュマの民主化闘争―)<晩聲社刊>に詳しい)。
60歳を越えている彼女から、気迫あふれる言葉と“やる気”が伝わってきて、今年のスタートにはずみをつけてもらったような感じだった。
ところで、「今日のキョンちゃん」、4日間つづけることができた。これで3日ボーズにはならない。ヤッタネ。(このあともマメに更新します。新年の決意。)

2006年1月11日

今日で8日間、まったく外出せず。
このままひきこもりができそうな気がしてくる(ムリでしょう)。
歩いていないせいか、足に力が入らない。これではいかん。明日は歩こう。
初講演は16日の予定。渋谷区の職員組合の女性部のみなさんが対象。宣伝担当としては、「おんな組いのち」をアピールしてこなきゃね。

2006年1月10日

原稿用紙を机の上に置き、鉛筆と消しゴム(で書いてます)を手に初仕事。
月間の教育雑誌に3年にわたって連載してきたが、ついに今回が最終回。筆無精(ホントです)の私が1回400字の原稿用紙に10枚弱書いてきた。われながらよくがんばった。
人間やればできる。『今日のキョンちゃん』もがんばるぞ。
汗と涙(締切り過ぎてもこない原稿を待つ編集者の)の結晶、本にしなきゃ、本にしたい、本にします。やっとこれで今年本が出せそう。ホントかな(自分で自分が信じられないのが悲しい)。

2006年1月8日

あけましておめでとうございます。
昨年スタートしたものの、3日ボーズならぬ2日ボーズのまま。ごめんなさい。今年から再スタートということで、どうぞよろしく。
いっぱい書かなきゃと思うと息切れしてしまうので、マメに短くをモットーにします。
元旦からずっと年賀状書き。今日も万年筆(手書きです)を走らせてますが、いよいよ今日中にはケリがつきそう。
3日夜は、渡米直前の辛淑玉チャンを訪問。アメリカで、いっそう腕(女も)を磨いてくることでしょう。

2005年9月30日

岡山県倉敷市へ。
倉敷には学校の講演で、ここ3年間ほどの間に3回訪れている。
大原美術館近くのホテルで前泊し、古城池高等学校に。開校記念の講演会のタイトルは、「私以上でもなく、私以下でもない私」。
900人ほどの生徒と先生を前に1時間半、演壇を右に行ったり左に行ったり、チマ・チョゴリに着替えたり、最後は演壇からピョンと飛び降りたり、タイトルどおり、私のまんまの講演会だった。
“命”イコール自分自身を大切に素敵に生きようということを軸に、ソフトな話からハードな話まででんこ盛りで話したが、ありがたいほどみんなちゃんと聴いてくれた。終わってから感想を話してくれた生徒さんたち。一人ひとり、心に響いた話がそれぞれ違っていて、豊かな感受性をうれしく思った。
いつも思うことだが、(大人が)“伝える”ことの大切さを実感する。学校に講演に行くたび、生徒たちから希望と力をもらってくるようだ。

2005年9月28日

午前10時から横浜で、「コープかながわ」主催の「日本国憲法を考える」の講座で講演。
参加者は全員女性。朝に弱い私だけれど、女性たちの前に立つとガ然、連帯感から力が湧き起こり、2時間40分話しつづけた。武器を手に戦争をする男たちは許せんとボルテージも上がる一方。
それにしても、時間がある(予定は2時間30分)ことをいいことに、我ながらよくしゃべった。

2005年9月27日

耳をつんざくような爆音。私が住んでいる町は厚木基地に近く、日常的に上空を米軍機が飛び交う。
テレビの音も電話の声もまったく聞こえなくなるくらいの凄まじい爆音を耳にすると、いまにも墜ちてきそうな恐怖を感じる。

1979年9月27日、いまから28年前の今日、厚木基地を飛び立った米軍のジェット機ファントムが横浜の緑区に墜落した。9名の重軽傷者のうち、3歳と1歳の男の子が全身やけどで命を奪われ、お母さんの土志田(としだ)和枝さんも4年後に亡くなった。
現場にすぐさま到着した自衛隊機は、いち早くパラシュートで脱出した2名の米兵を乗せて飛び去ったという。もしそのとき、自衛隊機が男の子たちを救助していたら、助かった可能性があったかもしれないと言われている。

9月17日に横浜で行われた「語り継ぐつどい」に参加した。佐高信さんと早乙女勝元さんに、和枝さんのお父さんである土志田勇さんがそれぞれ話をされたが、なかでも土志田さんの話は一言一言胸に沁みた。
いっさいの処罰を受けることがなかったジェット機のパイロットが、ずっと後になって除隊したあと、せめてその2人の名前を知りたい、会って一言の謝罪の言葉でもほしいと願ったけれど、当局からは拒否されたままだそうだ。
現在、土志田さんは和枝さんの夢を叶え、知的障害者の授産施設を運営している。
9月27日付で『「あふれる愛」を継いで』(七つ森書館)という本も出版された。

昨年の8月13日、沖縄国際大学に米軍の大型ヘリコプターが墜落したが、その現場を事故から2ヶ月後、間近に見た。
道路に面した大学の建物は黒く焼けただれ、一本の樹木がやはり真黒に焼け焦げていた。建物にぶつかる寸前に、ヘリコプターの機体の一部が破損して、大小さまざまな部品の破片が四方八方に落下したという。
道路を隔てて建っているマンションの窓を突き破って、ちょうど赤ちゃんが寝ているところに大きな破片が落ちてきたという。お母さんが直前に赤ちゃんを抱きあげて助かったそうだ。
沖縄の人たちが、絶えず米軍機(基地)に脅威にさらされながら暮らしていることを忘れてはいけないと思う。

アフガニスタンでもイラクでも、和枝さんや2人の息子さんたちのように、空からの攻撃(墜落、爆撃)で多くの命が奪われてきた。何千人とか何万人とかいう数字ではなく、一人ひとりに気持ちを重ねたい。

私は空が大好きで、子どものときからヒマさえあれば空を見上げてきた。その空を恐怖の空にしてはいけないと、今日は、特にそんな思いでいっぱいの日だった。