42回  「あのすば」追悼と笑い

田中優子(在日横浜人)

あけましておめでとうございます。と言っても、何か「あけていない」気がしている。晴れやかでない。理由はいくつかある。その中の一つは「死」だ。

「あのすば」は第1回目に書いたように、「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌の愛称である。単なる略称ではなく、愛称なのだ。この歌詞はきたやまおさむ(北山修の作詞家としての表記)が書いた。作曲は加藤和彦である。その加藤和彦氏は昨年10月17日、軽井沢で自殺をした。私は奥様だった故・安井かずみさんとは親交があったが、加藤和彦氏におめにかかったことはない。であるから個人的な悲しみというより、まず心に浮かんだ懸念は、私の研究者仲間であり、友人であり、あこがれの人である北山修さんの状態だった。しかしその気持ちを忖度すればするほど、声をかけることができないでいる。

その後、加藤和彦氏について北山修が書いた文章を読むことがあった。そこではこう書いている。「加藤は、人生を演劇だと考えていたと思う。彼には、舞台で演奏する音楽家であり聴衆に向かって微笑みかける出演者でありながら、同時に舞台の脇から、正面からその演技や演奏を厳しくチェックする演出家が棲みついていたのだ」「才能豊かな芸術家が陥りやすい不幸なのだが、すべて彼自身の中の批評家がうるさくチェックするので、客は喜んでも、ずっと加藤自身はなかなか十分な満足の得られない状態だったと思う」(「産経ニュース」より)と。

精神医学者としての北山修は、「楽屋」という考えをもっている。確かに人生は演劇だが芝居には必ず楽屋があり、そこでは力を抜くことができるはずだ、と。しかしもし、自分が自分の観客であったらどうか。観客としての自分が、演技者としての自分に永遠に満足できなければ、確かにやすらぎは無い。楽屋にいる自分さえ、許せなくなるだろう。しかしそこには、何かが欠けている。不完全な自分を「笑う」ことだ。

昨年はもうひとり大事な人が亡くなった。平岡正明だ。平岡正明にも自分なりの美意識があるわけだが、同時に笑いがあった。しかも自分を笑うことができた。笑いというと「おわらい」という言葉があるように、芸人に笑わせてもらうことを考えてしまうが、もっと大切なのは、自分を世間(社会でも地球でも)の中に置いてみて、それを遠くから眺めて笑うことだ。演技者(特に喜劇役者)とは本来、世間に生きている人々をもどいて(模倣して)、それを見せて、人々が自分を笑えるようにしてあげられる人ではなかったか。

日本は近代になって笑いや洒落を失う一方であった。しかし戦後、高度成長の中でそれを取り戻すかと思えば、競争の中でさらに笑いを失った。「戦争」「競争」「金儲け」「格差」は、笑いと共存できないのである。とても難しいことだが、あるていど年をとったら、人は喜劇役者になった方がいい。いや、年をとらなくても、今年の課題は「笑い」である。