35回  サラエボの朝

田中優子(在日横浜人)

2009年6月4日。サラエボの朝が明けた。空気がさわやかだ。高度約600メートルだという。四方に山が見え、歩いていると、あらゆるところが坂であることに気づく。急坂もあり、ゆるやかな坂もある。ごみひとつ落ちていない、静かで清潔な町だ。夜の11時にいっせいにごみ収集車が動き、工事が始まるとあまり時間も置かずに終わるという。

中心地から離れると、山の中腹に小さなレストランがいくつかあって、一夜、そのひとつで夕食をとった。遠くに雪をかぶった山が見える。近くに幾重もの山の稜線が迫り、急坂にぎっしりと家々が建ち並んでいて、夜8時半を過ぎるとようやく陽は沈み、家の灯が点々とともる。月が出る。山で構成された美しい町だ。

「今日のサラエボ」――これは私がイギリスで暮らしていた1993年、毎日、BBCテレビから流れていたニュース番組である。赤子を抱いて通りを走る女性に銃弾の雨が降る。弾痕で埋め尽くされて行くビルの外壁。日本ではほとんど見ないそのような映像が、ヨーロッパでは毎日のように報道されていた。近いから、というだけではない。ボスニアはヨーロッパのある側面を象徴していたからである。16年後、自分自身がその通りに立つとは思ってもいなかった。そこはかつて「スナイパー通り」と言われていたのだ。

スナイパー通りではサラエボの中心部をセルビア軍がぐるりと囲み、山の中腹からボスニア人を銃や戦車で銃撃した。ボスニア人とは人口の44%を占めるイスラム教徒のことである。彼らはオスマン・トルコがボスニアを征服していた15世紀から19世紀までのあいだにイスラム化した人々で、トルコ人と同じく決して原理主義者ではない。女性の殆どはブルカもスカーフもかぶっていない。教育程度も高く、英語を話す人も多い。

セルビア軍にぐるりと取り囲まれたサラエボから出る出口は、唯一、空港のある地帯だった。しかしここから出ようとするボスニア人たちも銃撃された。そこで、空港の下にトンネルを掘り、食料を運び、あるいは脱出した。トンネルは埋められたが、その入り口と出口は公開されている。人ひとりがやっと通れる道を作って、彼らは生き延びたのだ。

なぜそんなことが起こったのだろうか。歴史をたどるときりがない。私が「今日のサラエボ」を見ていた1993年前後に限ろう。ユーゴスラビアが崩壊して間もなく、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年3月、住民投票で独立を決めた。この時すでにスロベニアもクロアチアも、ユーゴスラビア連邦軍やセルビア人との戦争の末、独立していた。ボスニアは一民族が圧倒的多数を占めるということがなく、セルビア系が33%、クロアチア系が17%であったので、セルビア人は隣国に成立した、ミロシェビッチの率いる新ユーゴスラビア(現セルビアモンテネグロ)をたのんで一気にボスニアをセルビア人国家にしようとしたのである。

この大セルビア主義にNATOが介入した。こんどはボスニアの地は、NATO軍の空爆の嵐となる。死者約20万人、難民・避難民約200万人という戦後欧州で最悪の紛争の末、1995年、和平合意が結ばれる。ボスニアの地は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」に2分された。2つの共同体は、8ヶ月交代で中央政府を担っている。

ノーム・チョムスキーは、クリントンがアルカイダとヒズボラの工作員をボスニアへ送ったことや、「外国の投資に門戸を開くことを見返りとして」ボスニアへの援助がなされたことを、1999年のインタビューで述べている。「遅かれ早かれ、セルビアの鉱工業の豊かな中心地は西洋の複合企業の手に落ちるでしょう。経済政策を大筋において決定している金融関係の機関も、同じ道をたどるでしょう。最後には、経済活動全体が、同じ運命をたどることになるのです」と予想した。(『チョムスキー、世界を語る』トランスビュー 2002)

サラエボはこの4、5年で激変したという。美しいヨーロッパの都市そのままだ。スナイパー通りには明るい色のトラム(路面電車)が走り、高級デパートなみの高層スーパーが建つ。高層スーパーの中には、チョムスキーが予想したとおり、アメリカ資本が入っている。様々な時代のワーゲンが道を埋め、交通量も半端ではない。イスラム寺院やセルビア正教会の見える旧市街は観光客で賑わっている。そこには、まさに「ホテル・ヨーロッパ」という名の超モダンなホテルが建設された。今や日本を含め約40ヶ国の大使館があり、アメリカ大使館は巨大なビルを新たに建設中だ。現在のボスニアの平和を支えているのは、G8諸国で構成された会議だ。日本もその中のひとつである。

しかし人々は、今なお残る生々しい壁面の弾痕を隠すこともなく、破壊された建物は、きれいに修復されたものもあれば、そのままのものもある。まだ14年しかたっていない。人々は記憶の中にあの時代をおしこめたまま、都市の傷とともに、静かに明るく、したたかに生きている。かつてのオリンピック会場は、遺体を収容しきれず墓地となった。そこを訪れると、墓は2000年代になっても増え続けていた。戦争の後遺症は残っている。

NATOやアメリカは、イスラムを嫌っているわけではない。宗教戦争をしているわけでもない。民族主義と民族浄化という、ヨーロッパが容易には乗り越えられない発想と行動を利用して、権力を拡大しようとしているのだ。本当の敵は誰なのか。戦争に煽りたてられる前に私たちが知るべきなのは、いつもそのことである。



オリンピック会場にできた墓場