32回  金で人をあやつる政治の登場

田中優子(在日横浜人)

定額給付金の給付が始まった。新聞でもテレビでも、「もらって嬉しい」とか、「もらいたい」という人たちの表情を報道している。この報道姿勢は明らかに、定額給付金的な政策を評価している姿勢だ。私は何やら、そら恐ろしい気分がしている。

定額給付金はもともと、私たち自身の金である。それを忘れてはならない。もし現金で景気を刺激するためにだけ支給するのであれば、それは正確に「還付金」と名付けるべきだった。私たちは、政府にあずけた金を返してもらうのである。その金に「給付」と言う名をつけたことに、私は政府によって感情(喜怒哀楽)がコントロールされていく道筋を感じたのである。それが「そら恐ろしい」原因だ。

地域によっては、その地域にある自動車会社の車を買えば10万円を補助する、という政策を打ち出したところもある。市長は自信満々で、市民はやはり嬉しそうであった。しかしこれも、もともとあなた方の金なのだ。これらには、人々が金によって従属的になる、という問題が潜んでいる。金は人を従属させてしまう。政治は、そのからくりを使いはじめている。

これらには、もうひとつ重大な問題がある。一時的だ、ということだ。政策とは継続的なものを言う。これほどにまで一時的であると、もう政策とは言えない。単なる人気取りであり、感情制御でしかない。衆愚政治のからくりが生々しく露出していて、見るに堪えない。定額給付金が1万2000円でも2万でもなく、終身で毎月8万円以上になれば、これはベーシック・インカムという、本当の意味での再分配になる。こうなれば政策である。人が生きることや、企業が活動することを、真に支えるからである。定額給付金に喜んでいるうちに、ベーシック・インカムへの真剣な議論が遠のく。私たちはそのようにして騙されてゆく。

車好きの友人が、10万円補助に腹を立てていた。なぜなら、補助金で人々が一時的に車を購入することで、その企業は、なぜ自分の会社の車が売れないか、その理由と真に向き合うことはなくなり、何も改善されず、車は少しも良くならず、社会の変化にもついてゆけず、いずれは倒産するからだという。一時的で感情的な対応は、たいていの場合、問題を先に持ち越しているに過ぎない。結局はいつか現実と直面することになる。

私たちは給付金を「還付金」と言い換えつつ、それを戦いのための資金として貯蓄するか、寄附というかたちでどこかへプールするのが賢い方法である(といっても、情けないほど一時的でしかないが)。しかし買い物しようと貯蓄しようと、また次の日から不安にかられつつ働く日々が戻るだけである。店も企業も、やはり一時的に潤うだけで、次の日からは売れない日々が待っている。一度買ってしまえばもう買わないものしか、どうせ売れないのである。

なぜ人はこうも、先を見なくなってしまったのだろう。ごく簡単な因果関係すら、考えなくなってしまったのだろう。私はこの2、3日、政治に絶望しながら、この恐ろしさを報道できないマスコミにも、報道されないからという理由で考えないでいる人々にも、かなり絶望している。