31回  ソマリア海賊から考える「国」というもの

田中優子(在日横浜人)

ソマリア海賊は「国家とは何か」を改めて考えさせてくれた。歴史上、山賊も海賊もこの地球上から消えたことは無い。日本人も14世紀にはその海賊行為がたびたび記録され、「倭寇」と言えば殺りくと誘拐で名を馳せていた。倭寇は海賊の別名となり、16世紀には構成メンバーの殆どが中国人であるにもかかわらず、倭寇と呼ばれていた。

原因ははっきりしている。内戦状態が続き、国内が統一されておらず、国の中に海賊の取り締まり機能が無いためである。原因がわかっていた朝鮮王朝は、日本に幾度も使節を送ってきた。海賊の取り締まりを要請したのである。朝鮮王国からの度重なる、礼儀正しい要請によって、ようやく取り締まりが強化され、日本人海賊は激減した。その地盤(海盤)は中国人海賊にそっくり受け渡された。そもそも海の民に国境は無いのだから、これは陸の権力と海の民との闘いだったのかも知れない。

日本人海賊がすっかり影をひそめたのは、秀吉による全国統一のころだった。しかし秀吉は、権力を掌握するためにある方法を取った。植民地政策である。外国を攻めて土地を拡大し、天皇と家臣に分け与えて君臨しよう、と計画したのだった。他人の国土に武力侵略してそれを権力の道具にしたのだから、海賊よりたちが悪い。ただし、後陽成天皇が北京に行くことを拒否したので徒労に終わっただけでなく、さんざんに負けた。もっとも、昭和天皇は朝鮮・満州の支配に賛成したのにもかかわらず、やはり負けたのだが。

ところでソマリアである。我々は何のために自衛隊をソマリア海賊退治に送り込むのか? 海賊を連れ帰って難民として受け容れる覚悟はあるのか? それとも、内戦の被害者である漁民たちを無闇に殺すのか? あるいは陸地に追いやり、アメリカの基地でも作らせるのか?(まるで水滸伝だ)。彼らと接触した後、彼らをどうするつもりなのだろう。海賊は国家という抽象的なものではなく、人間である。相手は国でもなく軍隊でもない。彼らをどうするというのだろう。

強力な国の統一は確かに海賊を吸収し内戦を終結させる。
が、秩序維持のために海外と戦争をするのなら、いったい何のための国家なのか? 内戦は良くない、独裁も良くない、しかし戦争は良い――米国を代表とする民主主義国家は、そう言う。近代国家は暴力装置だ、と断言する人がいるが、本当にそうか? 暴力装置でなくすことができない、というのだろうか? ならば国は何のためにあるのだろうか? 人を殺すためにあるのか?

内戦を放任しておく国も、国内秩序はあるが国外戦争しなければ生きていけない国も、どちらも同じようなものだ。私は、国はひとりひとりの人間が安定して生きるために作りあげる共同体であり、その存在理由は内に対しても外に対しても同じなのだと思っている。内側に強権をふるう大国は、武力による統一をする前に分裂すべきだ。外側に戦いを挑み続ける大国や小国は、そのために疲弊している人々に気付くべきだろう。内側にも外側にも暴力装置ではない国を作りたい。いっそのこと国という言い方をやめて無数の自治組織に分裂し、世界を村の連合体にしたい。日本村はソマリア村の魚介類を奪わないで、自分の海で生きていけばいいのである。