あのすば・・・・ 第15回

 今回は、法政大学社会学部の4年生で石垣島出身の内原英聡(うちはら・ひでとし)をゲストに迎えます。私は今回、沖縄の集団自決問題について書きたかったですが、それは声を上げた当事者のひとりである彼に書いてもらったほうがいいと考えたからです。文章は、長かったので半分にしましたが、まったく直してありません。残りの半分は次回に掲載します(田中優子)


忘る勿かれ

内原英聡

 上京したての頃のこと。JR山手線の電車内で、赤ちゃんを抱いた女性が中年の男に怒鳴られていた。赤ちゃんは大声で泣き叫んでいた。男は母親に「うるさい。黙らせろ!じゃなきゃ次で降りろ」と暴言を吐いた。母親は動揺しながら「すみません」を繰り返し、必死に赤ちゃんをあやし続けた。周囲はそれを見て初め驚いた。が、一呼吸を終えた後、近くにいた年輩の女性が口を開いた。彼女は男に向かって「あなた、その言い方はないでしょう」と言った。しかし男はこの女性にも怒りをぶつけた。「周りの皆が思っていることを俺は口にしただけだ。文句あるのか」と、己の行為を正当化して止まない。

 私はいたたまれない気持ちになり、男に「誰もそんなこと思っていませんよ。あなたが次で降りればいいでしょう」と強気な口調で返した。幸い周囲もこちらに与するような雰囲気に包まれていた。これを察知したのか、男は黙り込み、次の駅で降りた。しかし彼は電車から降りた直後、外から車両の窓を殴った。そして、もはや聴こえなかったが、何か憎悪に満ちた言葉も吐き棄てていたようだった。

 私はこのとき、「待てよ」と思った。この状況は何かと同じではないか。そう、第二次世界大戦下末期の沖縄で、ガマ(防空壕)で実際に起こった光景そのものだ。私は直接体験していない。しかし戦場を生き延びた人々からは、この類の話をよく聴いていた。時空こそ超越しているが、やはりあの時も、電車の中で母親を怒鳴りつけた男のような軍人は存在していたのだろう。ただあの時と違うのは、電車内の男が銃剣を握っていなかった、ということだけでしかない。ともあれ、東京でのこの実体験を通して、私は次のことを確信した。「この先も、<あの時>と同じ時代が来てもおかしくはない」と。


 沖縄では、今も多くの年中行事が執り行われており、最低でも年に一度か二度は親戚が集う。夜は酒宴になるわけだが、現在でもその席では「戦争体験」の話が出る。親類は、自分がどのように生き延びたかということを熱心に語る。時にみんなで「そうだ、そうだ」と頷き合う。結局いつも同じ話を繰り返しているのだが、裏を返せば、それほどあの戦争が、彼らの人生を左右したことを物語っている。私たちがここに集うことは、奇跡であり、多くの犠牲の上に生かされているということを、人々は噛み締めている。

 「軍が人を守る?笑わせるな。そんなの本気で信じているのは戦場を経験していないからだ。軍人の究極の目的は敵と戦って勝つことだ。そのためならば住民にも命令を下す。それが軍隊というものだ」と伯父達は語る。この軍隊に対する認識は、現在でも沖縄の人々がおおよその所で共有している感覚だろう。


 さて、会話の中に登場した命令という言葉について、ほんの少し例を挙げておきたい。記録に残っているものでも、命令はまず糧秣の提供に関することから始まり(日本軍は食料のことを糧秣と呼んでいたそうだ)、壕の使用権の譲渡、そして人員の提供を求めたりすることがあった。糧秣の提供と言っても、これは最終的に強奪に近い形で遂行された。壕の明け渡しも、人員の補充も、すべてが「国家(ひいては天皇の臣軍)への奉仕」の名の下、住民に強いられた(命懸けの)負担であった。これら以外にも例を出せば枚挙に暇ない。また、こうした軍の命令がもたらした悲劇も、相当の数が確認されている。

 日本史の教科書には詳細に記載されていないが、私の出身である八重山諸島では、こうした軍の命令によって、住民が強制的に密林地帯(あるいは他島へと)移住させられた事実がある。もともと八重山の特定の地域には、蚊が媒体となって感染するマラリア病があった。軍に移動を命じられた人々の中には、そのマラリアに感染して絶命した者も大量にいた。しかし本来、住民はマラリア蚊の棲息地を経験的に把握しており、そうした場所へ出向くことは避けていた。それでも行かなければならなかったのは、軍が島中の糧秣(食糧)を独占するために、人々を強引に退けたからである。一部とは言え、現在もこれを「疎開(戦場から住民を非難させる)だった」と主張する元日本軍の関係者はいる。しかし、少なくとも八重山の人々はそのように考えてはいない。

 話を戻そう。ともかく、そうした軍の「横行」は、たとえ文書がなくとも、当時は「天皇陛下の命令」の一言で多くのことが強行できた米と言う。今は、そうした当時の軍人の行動を「一部の暴走」と呼ぶ人々がいる。そうした主張を平気で展開する人々はさらに「上層からの文書による命令が存在しないとなれば、それを事実と認めるわけにはいかない」とも言う。言うまでもなく、これは軍の強制による集団自決の有無に際した否定派の主張でもある。しかし、「一部の暴走」という主張は論外という他ない。一部であれ全部であれ、軍であることに変わりない。
 とは言え、八重山地方の戦争マラリアの例は別としても、確かに軍隊が常に一方的に横暴を振ったかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。住民たちが時に、進んで軍に協力した(そして、軍の命令に従った)可能性もある。

 ではなぜそうした社会心理状況(集団心理)が当時の沖縄において成立し得たのか、ということになるが、これは「教育」と各種メディアを通じた「宣伝」の力に拠るところが大きいと私は考えている(もちろん、「噂」もその範疇に入る)。明治から続いた「国民化」、「皇民化」政策の下、沖縄でも台湾でも、徹底的な「近代教育」が施されてきた。知識層を始め、多くの住民は、軍隊の言うことは絶対であり、正しいと信じて疑わなかった。そうした人々が、当時の空気を形成したことも無視してはならない。こうした日本軍と教育の「負の相乗効果」が、沖縄戦をより悲惨な状況へと追いやったのである。

 教科書からの集団自決、「軍の強制」記述削除の問題を巡り、日本は怒りの声を揚げた(少なくとも沖縄ではそうだった)。とは言え、たとえ沖縄であっても、戦後六十余年も過ぎると、人々の意見が一致するのは難しい。あの強烈な記憶は、やがて「経験」から「知識」に変わる。本土ではそれがいち早く達成されつつあるようだが、沖縄も時間の問題ではないかと思う。臥薪嘗胆ではないが、皮肉なことに米軍基地があるおかげで、かろうじてその苦しみを擬似的に実感できているだけなのかもしれない。あの地上戦を風化させることなく伝えていくためには、今後、より強い意志と、それを支える論理を構築していく必要がある。
 また沖縄は今、日本、アメリカ、そして自らの共同体に対する愛憎の矛盾を抱え、さらにその葛藤を増幅させ続けている。一方の集団に属した場合、隣人は憎むべき「敵」であっても、日常ではかけがえのない家族であったり、友人であったり、という関係が複雑に絡み合っているのが現状である。

 「集団自決」の問題に関して述べれば、物事を機械的に解決できると考えた人々は(つまり「集団自決」問題を、軍命の文書の有無のみで処理してしまおうと考える人々は)、決して「理性的」ではなく、単に他人事として受け止めているからに過ぎないと、私は考える。今回の県民大会で揚がった沖縄の主張は、その「リスク」を考慮すれば、「本当は黙っていた方が(沖縄の人々にとっては)都合の良い話」だったのかもしれない。しかし、現場にいる人間の多くは、そうしたぎりぎりの状況下でも、あえて声を出すことを選択したのである。そうすることこそ、将来の日本、そして世界のためと考えたのである。どうか、その思いを汲み取って欲しい。

* 宮良作『日本軍と戦争マラリア』2004 朝日出版社 5頁
注:表題は、西表島の砂浜の岩に刻まれている「忘勿石」に由来する。