あのすば・・・・ 第14回

あなたはガイサンシーを見たか?

田中優子(在日横浜人)

 ドキュメンタリー映画『ガイサンシーとその姉妹たち』を、もうご覧になっただろうか?もしまだなら、今年2007年10月27日から、「ポレポレ東中野」でロードショーが始まることをお伝えしておきたい。ロードショーと言っても、決してハリウッド映画のような華やかなものではない。小さなビデオ映像による80分の記録映画だ。しかしその内容は衝撃的なものである。
 日本には未だに「従軍慰安婦などいなかった」と言い張り、たいまいの金を使ってアメリカの新聞に意見広告まで出す恥ずかしい人たちがいるのだが、この映画を見ると「従軍慰安婦などいなかった」という言葉が、逆の意味で真実かも知れない、と思えてくる。「従軍慰安婦などという生やさしいものではなかった」という意味で、である。

 ガイサンシーは「蓋山西」と書く。山西省一の美人、という意味だ。そう呼ばれた一人の女性が日本兵に連れ去られ、果てしない暴行を受けたあと、子宮から出血が止まらなくなって家に戻される。15歳で結婚しすでに幼い息子がいたその女性は、その後夫に去られ、村人たちからも差別されながら極貧の生活を送り、1993年に亡くなった。しかしこの映画は、その女性が登場するのではない。ガイサンシーはすでに亡くなっていた、ということが出発点になっている。

 そして、ガイサンシー以外の多くの女性たち(彼女たちは自らを、ガイサンシーの姉妹と見立てている)が、13歳や15歳のときに、さらに信じられないようなひどい性暴力を受けて精神に異常をきたし、あるいは身体に傷を受けたまま、今でも山西省に暮らしている。この映画はその事実を追ったのである。その現場は慰安所などというものではなく、犯罪現場である。慰安婦などというものではなく、脅迫と暴力によって縛られた奴隷であり犯罪被害者である。もちろん彼女たちには一銭も支払われていないし、強制的に引きずられて(狭義の強制性)殺すと脅されながら強姦とひどい暴力を受けた。映画の中には、日本軍の隊長や兵士たちの実名も出てくる。著書(梨の木舎刊)には詳細なトーチカの場所も示され、その部隊にいた人の証言もある。「慰安所」と呼ばれていた所も、多かれ少なかれそういう状況ではなかったか、と推測される。

 映画を作った人は班忠義という。じつは1987年ごろ、班忠義は突然私の研究室に現れた。日本に留学したばかりのころだった。なぜ私のところに来たのか、今でも定かにはわからない。たしか彼の要望は「日本語・日本文化を教えてほしい」というものだったと記憶している。彼は他の大学の大学院生であったし、私はすでに法政大学の助教授で多くの講義をもっており、本の執筆や講演にかけまわっていて、「とてもご要望には応えられない。ほかに適任者がいるはず」と断ったと記憶している。私は中国で半年暮らして帰国したばかりで、延吉出身の朝鮮系中国人、李善子という大学生を受け容れていた。彼女と班忠義と3人で会った記憶もある。彼はそのころ恐らく、中国を理解してくれそうな様々な人を尋ねてまわっていたのではないか。なにより、日本人と対話を続けたかったのではないか。そしていまや素晴らしい仕事をしている。映画だけではなく、その著書も価値がある。

 私は映画を見に行ったときに班忠義の横を、声をかけずに通りすぎることにした。結局、今まで何も力になれなかったからである。そして、遠くから彼の仕事と運動を応援しようと思っている。
 この映画には、元日本兵が複数出てきてインタビューに答えている。本にもその内容が記録されている。班忠義は彼らに驚くほど同情的で、カメラの前で話してくれたことに感謝を表明している。映画上映の後の対談では、「この映画が、はからずも元日本兵と中国人女性たちのコミュニケーションの場となった」とさえ語っている。気持ちはわかる。沈黙してしまう多くの元兵士たちの中で、カメラの前で話してくれることがどれほどの勇気か、班忠義には痛いほどわかるのだろう。

 しかし映画を見ている人たちは気づいたはずだ。元日本兵たちは、この映画に描かれている事実を、何とも思っていない。女性たちの苦しみも病も自分と関係ない、と思っている。心が痛むことすらない。人間とさえも思っていない。「たいしたことではないさ」――元日本兵および多くの日本人のそういう気持ちが、画面から伝わってきてしまうのである。コミュニケーションどころか、大いにすれ違っている。自分がおこなってきたことが見えない。これが戦後の日本人の真実なのである。
 この映画は、そのことに痛みを覚えながら見るしかない。