あのすば・・・・ 第10回

おんなと選挙

田中優子(在日横浜人)

 「選挙は祭じゃない!」と怒っていた男性がいた。理屈から言えばそのとおりである。だからここではそれ以上、「民俗学的な見地から祭であることを証明」したりなんぞはしない。ただ私は4月4日、「おんな組」の出した政策広報車(選挙運動の車と厳然と区別されるそうだ)に乗って、初めて選挙運動を体験し(デモは選挙運動ではないので)、「おんなとは何か」について、あらためて考え込んでしまった。
 「パイ・パティローマの話」というのを、石垣島出身の学生から聞いた。ある集落が重税で食べていかれなくなり、舟で全員が逃散することにした。舟に向かう途中、ひとりの女性が「鍋を忘れてきた」と言い、覚悟の上で引き返した。鍋は女性にとって、生活に欠かせない重要なものだったのである。その結果女性は舟に乗り遅れ、島に取り残された。一方、舟は難破し、住民たちは捕らえられたり死んだりした。

 その学生はこの話に、鍋を取りにいったその行動こそ「おんな的なるものではないか」と注釈をつけた。人々は「ここではない別の場所」を求めてこぞって舟に乗ったが、乗り遅れることを覚悟で、より重要な日常(あるいは自分自身の基準)を選ぶことがある、ということだ。どちらの選択が正しいか、という問題ではない。舟で乗り出すことを「理想主義」と理解すれば、女性は単に「現実的」となる。しかしその理想を「経済的な拡大主義」と解釈すれば、女性は富よりも、長いあいだかかって作りあげてきた自分の日常の積み重ねを選んだ、と理解できる。学生はさらにつき進んで、舟は「利益を得るために戦争を始めること」と解釈した。女性は舟から下りて「非暴力」を選んだ。このとき私と学生は、「非暴力は非現実的なのか?」という話をしていたのである。舟は難破した。女性は島で生き残った。

 選挙に戻ろう。私はその日、いつものように刺し子を着た永六輔さんが、「パイ・パティローマの話」の女性のように見えた、と言いたかったのだ。みんなと同じものを着るのではない。誰かがひと針ひと針刺した、心の積み重ねのような衣を着て、誰の言葉でもない自分の言葉を語るすごさ。それを私は永六輔さんに感じた。「おんなこそ、こうでなくてはいけない」――そう思ったのだ。
 移動の途中、若桑みどりさんと上野千鶴子さんにも会った。「おんな組」の車に乗り込んだシンスゴさんやキョンナムさんや千夏さんも、ひとりひとりの迫力を持った人だが、若桑さん、上野さんもすごい。私はフェミニズムの、集団で動くところや不機嫌なポーズがあまり好きではないのだが、この二人は人間として好きなのである。何より、自分しか語れない言葉を作り出してきた。
 おんなは集団主義であってはならない。おんなこそ、本当の意味で自立をめざすことができる立場にいるのではないか。千夏さんの言う「軍団」になってはいけない。おんなは他人と「連」によってのみ、結びつけばよい。
 そんなことを考えながら、祭の後を味わっている。