第6回 指紋押捺の自分史 (2)

安壇泰

 外国人登録法は在日朝鮮人を標的にした治安立法である。

 83年7月、外国人登録法違反容疑で金明観氏(京都精華短大非常勤講師)が逮捕された。以降、日本人の間でも、指紋押捺や「外登法」への関心が高まった。
 85年7月、外国人登録の大量切替期を控え在日朝鮮人の間では、集団で拒否しようとする動きがあった。法務省はあわて指紋押捺拒否者への制裁措置や、告発の徹底などを求める通達を自治体に出した。
 川崎や高槻では、拒否者が自治体の告発を待たず逮捕される事態も発生した。
 この時期、指紋押捺拒否闘争は頂点に達していた。民団(在日本大韓民国居留民団(当時))でも、広範に大衆運動を展開した。また韓国政府やメディアにも働きかけ韓国でも大々的に報道された。
 日本国内では、180万人にも及ぶ市民の署名が集められた。700近い全国の自治体が「外国人登録法」の改正を促す決議がされた。全国市長会議では指紋押捺、常時携帯義務撤廃を求める決議をし、弁護士連合会も決議文を発表した。押捺拒否者の多くが逮捕され送検された。(運動期間中逮捕者は累計で22名、再入国不許可処分107名)
 日本人の支援運動も広がりを見せ、社会党や総評、キリスト教系の宗教団体等も合流してきた。またボランティアの弁護士が、起訴された拒否者の裁判を支えていた。在日欧米系白人や在日台湾人も在日朝鮮人の運動に呼応し、拒否する人も現れていた。

 「外登法」は在日朝鮮人を弾圧する治安立法以外の何ものでもない。例えば海水浴中であったり、銭湯の行き帰り、標的にした人を自宅で待ち伏せたりした。登下校時の朝鮮学校の学生にも容赦なく「登録証」の提示を求めた。
 危篤状態にある病人から市の職員が、指紋採取を強要した例もある。(青森市) 1963年に茨城県の竜ヶ崎朝鮮人学校で「登録証」を自宅に置き忘れたまま、授業をしていた教師を不携帯罪で連行した。三多摩では交通事故を起した在日朝鮮人青年が「登録証」不携帯の併合罪で1年6ヶ月の刑宣告を受けた。法務省はこの青年を、大村収容所に収容し強制送還を企図したこともある。
 1980年、小平の朝鮮大学ではパトカーを待機させ、学生を集団的に不携帯罪摘発しようとした。またマラソン大会のコース途中で待ち構え、「登録証」提示を求めたりもした。
 上智大学の学長であったジョセフ・ピタウ元学長は25年の在日期間中、一度も「登録証」の提示を求められたことがなかったという。
 不提示罪のある「外登法」は、求められたとき任意の拒否は出来ない。従って常に捜査権の発動が可能である。しかも刑事罰としての不携帯罪は「禁固あるいは一年以下の懲役または20万円以下の罰金」であった。因みに日本人の住民基本台帳の規則違反は行政罰の過料五千円である。

 《99年入管法改正で切替期間が5年から7年、20万円の罰金(刑事罰)が10万円以下の
   過料(行政罰)に改められた》


 指紋押捺を拒否し逮捕された人の話を聞く機会があった。職場に踏み込まれ有無を言わさず手錠をかけ、警察に連行された。取調室では数人で押さえつけられ、器具を使い拷問にも似た方法で、10本の指紋と掌紋の強制採取に及んだという。
 犯罪暦もなく罪証隠滅や逃亡の恐れのない、およそ犯罪者のイメージとはかけ離れた人間に対し行なわれた所業である。
 拒否者は確信犯である。自らが「外登法」に抵触することを自覚しつつ、悪法の撤廃要求をする高い次元の「抗議の犯罪」である。
 このような「犯罪」は予防できない。いわんや取調べで罪を認める分けがない。しかしその代償は大きい。検察は保釈請求に応じることなく延々と留置し続け、拘留段階での処罰を恣意的に継続するのである。

 私が指紋押捺拒否をしたのは1985年である。しかし拒否に踏みきる段になると、迷いが頭をもたげてくる。仕事にも没頭できない。何しろ一家5人で拒否するのである。身が竦む思いと様々な雑念に囚われた。逮捕、倒産、家庭崩壊・・・・。
 「登録証」の更新のため区役所に赴き、指紋押捺を拒否したのは8月某日。従って私の「外登証」の指紋事項欄は空白である。
 昭和60年8月〇日「法の申請にかかる指紋不押捺」とスタンプを押され、区長の個人名が刻印されている。既に区内にも多数の拒否者がいたのであろう。外国人登録課は「法の申請にかかる指紋不押捺」のスタンプまで準備し対応していたのだ。
 86年には連れ合いの切替、88年、91年、93年、と16歳を迎える子供がいる。どう対応していくべきか、切羽詰まった心境であった。
 「万人不動、終生不変」の指紋を5年毎に強要する、法によるレイプをどうしても忌避させたかった。私に続き86年、88年、91年と次々に家族が不押捺に合流してきた。
 一方では、指紋強要の制度は撤廃されるかも知れないという、かすかな希望もあった。それは過去例のない内外の圧力、数多の拒否者、日本人を含む支援の広がり、韓国政府の取り組みがあったからだ。

 日本政府はついに内外の圧力に屈した。
 93年1月、永住者・特別永住者については指紋押捺制度は廃止された。(2000年4月、非永住者についても撤廃)
 93年、末の息子は16歳の誕生日であるが、直前に指紋押捺制度が廃止されたため拒否者に加わることはなかった。結局家族4人が拒否したことになる。
 指紋押捺制度はなくなったが、あらたに同一性の確認のためとの理由で、署名と家族関係の登録を新たに義務付けたのである。しかも常時携帯義務は継続された。“10発の殴打を5発にしてやったから、ありがたく思え”式の決着であった。それでも、内心ほっとした気分であった。それまでの日々の重圧が計り知れないものであったからだ。
 今思うに、昔日の私が味わった屈辱を子供にさせたくないという、一点の曇りのない動機であった。私にとっての非暴力、不服従の闘いは、家族に対しある種、強要するものであったことは否めない。私達一家は指紋押捺拒否を、挫折することなく貫いたが、逮捕された人たちに対して名状しがたい後ろめたさが残ったのも事実である。
 ともあれ、指紋制度撤廃運動に連動した価値ある拒否者の一員に加わることはできた。

 1980年、時点での外国人登録法違反事件は52万余件である。前述したように、法の乱用は卑劣を極めていた。当時の在日朝鮮人が577,000人であることを勘案するとき、その弾圧が如何に執拗あったか容易に推し量ることが出来る。しかし日本社会には殆ど知られていなかった。
 在日朝鮮人は「外登証」が「朝鮮人登録証」であることを皮膚感覚で知っている。犬の鑑札である「ケピョ」=「登録証」を四六時中持たされている心理的負担は常に付きまとう。従って官憲に「ケピョ」を外せ(見せろ)と言われたとき、ただちに生体の防衛反応が起きる。
 在日朝鮮人の多くは「登録証」を要求どうりに、すんなりと提示する人は少ない。その場で理由を問いただしたり、抗議や、詰問、時には憤怒、あるいは揶揄、人それぞれのささやかなレジスタントを実行していた。
 私自身のことでいえば、「登録証」の提示を求められたことはおそらく5・60回、あるいはそれ以上あるかも知れない。殆ど交通違反の処理中や運転時のことであるが、一度も提示したことはがない。
 なぜ検挙されなかったのか答えは簡単である。決まって数日前に紛失してしていた。「登録証」の紛失には罰則規定がない。ただし「紛失した時は、14日以内に再交付を申請しなければならない」 これは親切にも「登録証」の注意事項に書かれていたことである。当然私は再交付を申請したことがない。
 不思議な話しだが、どこかに落としたと思っていたら、家にあったり、別のポケットに入っていたりする。錯覚だったのだ。「外登法」には錯覚を罰する条文もない。だから私は「紛失」してもあわてたり、心配したりしたことがない。

 検問で警察官に運転免許証を求められたら素直に応じるのが私の流儀だ。いつものパターンである。「ご苦労様、はいどうぞ」まず感じのいい人に変身する。それなのに相手側は、免許証で私の名前を確認するや変身する。
 警官:外登(外国人登録書)見せてください?
 
私 :どうして免許証で本人を確認しているのに、登録証が必要なんですか?
 警官:一応規則になっていますから。
 
私は懇切丁寧(提示要求の不当性、時には歴史的経緯)に説明した挙句。

 私 :三日前に紛失しました
 警官:えっ!紛失ですか?

 ここからの対応が状況や相手方により様々である。現場の警官は不携帯罪のことは皆知っているが、紛失規定のことは知らない。無線で延々と統括する警察署に問い合わせの作業がはじまる。警官が複数貼り付くこともある。この間5分から30分は覚悟しなければならない。
 しかし誤算もあった。帰宅を急がなければならない日であったが、たまたま全斗煥大統領(84年9月)の来日反対運動が展開される中、羽田近辺を走行中検問にあったとき、何時もの手法が通じず空港近くの警察署に連行された。
 「紛失」は貫いたがたっぷり「紛失」に到る経緯を説明させられ1時間以上足止めされたことがある。それでも懲りません。
 今後も「ケピョ」も持たされるかぎり、蟷螂の斧と知りつつも、何らかの抵抗はしなければならないと考えている。

 私が押捺拒否をした85年当時の外国人登録証明書は手帳式であった。手帳の表面上部が左右に細長に刳りぬかれ、1ページ目に書かれた登録番号が表紙から確認できるようになっていた。
 そしてその下に外国人登録証明書とあり、一行間隔があり三行にわたり<CERTIFICATE OF ALIEN REGISTRATION>とあり汚れや毀損を避けるため透明のビニールカバーがされていた。四六時中携帯しなければならないものであり、当局の細やかな配慮?がなされていた。
 1ページから3ページにわたり17項目の個人情報が記載されている。4ページ目には写真と指紋欄があった。

 1980年、指紋押捺拒否を最初に行なったのは、在日朝鮮人韓宗碩氏(2008年7月死去)である。「たった一人の反乱」で始まった。韓氏は全国を回り、一万人以上といわれる押捺拒否者の先例になった。私は80年に切替期であったが、韓氏の「たった一人の反乱」を知ったときは既に押捺し外国人登録証を書き換えたばかりであった。
 80年の暮れにある会合でお会いする機会があった。多くを語る方ではなかったが指紋押捺の不正義、不当性と、拒否の信念を語る在日朝鮮人一世の一言、一言に深い感銘を受けたことを記憶している。
 その日、私自身も拒否の隊列に加わる決意をした日でもあった。しかし自覚的に隊列に加わるには、次の書換期である85年まで待たなければならなかった。その後、崔昌華牧師(故人)崔善愛(ピアニスト)父娘が日本政府を相手取り指紋押捺強要の不当性を訴え、裁判闘争を展開した。(最高裁判所で敗訴) 崔善愛氏は指紋押捺を拒んだまま、1986年に26歳で米国にピアノ留学したため、特別永住の資格を取り消された。
 起訴された韓宗碩氏、金徳煥氏、李相鎬氏らの裁判には、ボランティアの弁護士や多くの日本人市民が支援に加わった。

 1973年8月8日、金大中元大統領が東京のホテルから白昼拉致された事件があった。このとき韓国大使館の金東雲(KCIA要員)一等書記官の指紋が、現場から採取されたが、照合に使われたのは指紋は日本入国の際、書かれた入国カードからのものである。
 在日朝鮮人の指紋は公安関係機関に保存され、さまざまな犯罪捜査に利用されているはずだ。

 第129回国会(1994年) 法務委員会で社会党(当時)の栗原君子氏は以下のような質問に法務省・入国管理局長が答えている。(指紋制度が無くなった翌年の国会議事録抜粋)

栗原君子君
 
 それでは次に、法務省の入管局長の通達、そして日本に長期滞在の外国人指紋押捺及び外国人登録証の携帯義務、こういったことについてお尋ねをいたします。(中略)
 九二年五月十九日の参議院の法務委員会の附帯決議に基づき、指紋原紙は廃棄すべきではないでしょうか。(中略)
 また、外国人登録原票の指紋部分についてはどのように処理されているのでございましょうか。過去にマイクロフィルム化された指紋を消去するどころか自治体に保管されている書きかえ済みの登録票を法務省に集めるという通達を、これは昨年十二月二十七日に出しております。集めたものをさらにマイクロフィルム化すると言明しておりますけれども、これはなぜでございましょうか。


 政府委員(塚田千裕君) 

  お答え申し上げます。(中略)平成五年一月八日から同年十二月末までに切りかえを行った方の指紋原紙を集めました上で廃棄する作業を部内で進めております。平成五年分の廃棄予定数は約七万枚ございます。今後も年に一回程度前年中に切りかえが終わったものの指紋原紙を同様に廃棄することとしておりまして、平成十年の初頭までには永住者、特別永住者の指紋原紙はすべて廃棄されることになります。(中略)
 保管上の便宜を図るために一たんマイクロフィルム化した上で原本を廃棄いたします。ほかに漏れることのないように法務省において厳重に保管する予定でございます。
 なぜこういうものを法務省に保管するかということでございますけれども、これは新制度にかわっても旧登録原票は当時の外国人の在留状況を正確に記録する公文書でございますので執務上これは保管する必要がある、外国人登録法を執行していく上で大切な資料でございますので今申し上げたような手続を踏みまして保管をし、法務省で厳重に取り扱いまして執務に供しているということでございます。ほかへ漏れるようなことはございません。


 合法的(強制的)に採取した在日朝鮮人の指紋は指紋押捺制度が廃止された後もマイクロフィルム化され法務省に保管されていたのである。はたして他に漏れてないだろうか。真っ赤な嘘と断定できる。役人の戯言は日常茶飯である。
 塚田入国管理局長は、平然とうそを言っている。はなはだ白白しい。在日朝鮮人なら誰でも警察の犯罪捜査に悪用されていることを知っている。廃止された制度を今尚活用することに唖然とするばかりであるが、もし日本人?がと考えれば、どれ程在日朝鮮人の人権が蔑ろにされているのか斟酌できるはずだ。旧法の残滓である登録原票を破棄したことの確認と、マイクロフィルムを焼却させることが出来ないだろうか。

 現在日本国の法務大臣は千葉景子氏である。千葉氏は法務大臣になったとき、記者会見で、「人権救済機関の設置」「国際人権条約の選択議定書の批准」「国民視点に立って検察の暴走をチェック」「取調べの可視化」等についても触れた。
 一連の就任会見を見ながら大いに期待し、最良の大臣が誕生したと思ったものである。なぜなら野党時代、千葉氏は外国人の人権問題、在日朝鮮人の問題を最も多く国会で取り上げている。また過去参院の法務委員会では、何度も「外国人登録法」の問題を取り上げ、指紋押捺の撤廃にまで言及している。

 1999年5月に法務委員会で質問している。

 千葉景子君

 この外国人登録証については、登録済み証明が自治体において交付をされていろいろ利用されてきたということはあるんですけれども、国の機関、特に捜査機関については大量照会等の問題が指摘されてまいりました。(中略)この大量照会等、こういう問題点についてはこの法律ではどういうチェックがされようとしているのでしょうか。特に、捜査事項照会によってこれまでは照会がなされてきた、それとの関係はどういうふうになりますか。


 政府委員(竹中繁雄君)

 過去にそういう事例があったということ、いろいろ問題視されたということは私どもも承知しております。  先ほど委員がおっしゃいましたような漠然とした大勢といいますか、不特定多数の外国人にかかわるような開示の請求あるいは必要性が不明瞭、そういうような請求があった場合にどういうとうにするかということでございますけれども、その請求の理由等に十分な合理的な理由があるのかどうか、その請求の根拠となる法令は何か、あるいはその趣旨はどうなっているか、そういうものを確認しまして、その上で対処すべきものだと思っております。

 千葉氏は過去に次のような発言をしている。

●36年間、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島の人々とその子孫が、外国籍を持つとはいえ、地域市民として生活していることも忘れてはなりません。

●国際人権規約の理念である内外人平等の原則を踏まえた外国人に係る適切な取り扱いが要請されるところです。

●入国管理法と外国人登録法は外国人を友人としてではなく、日本社会の異端とみなし、厳しく管理すべきとする思想から抜け出ておりません。

●管理的色彩が強いという特徴は、登録証の常時携帯を罰則によって強制するという仕組みにはっきり示されています。

●政府は国連の人権規約委員会が外国人登録証の、常時携帯の廃止を求めていることを直視し、法の目的を見直し、常時携帯制度を速やかに撤廃すべきであります。

 
 千葉氏は法務大臣就任後、これまでに不法滞在していたインド人一家や強制退去の危機にあったフィリピン人、中国人に在留特別許可をしている。また死刑廃止論者でもあるが信念に従って死刑執行をしていないし、今後もしないだろう。 
 殆ど報道されていないが、野党時代(2006年)国外退去処分のイラン人の処分取り消しを求める運動の呼びかけ人になったり、2007年、不法滞在していた韓国人の家族の救済に奔走する等、実績と成果も多くその人権感覚は折紙付だ。
 千葉氏の歴史観や人権思想が、外国人の人権にいかに反映するか、所管大臣としてどこま職責を果たすのか見守りたい。
 
 1984年、在日朝鮮人の呉徳洙監督によって作られたドキュメンタリー「指紋押捺拒否」は、犯罪者と在日朝鮮人を同列視する民族差別の象徴的なものとして描かれていた。
 映画の中で16歳の辛仁夏さんが指紋押捺の不当性を語っている。
 
 指紋とは、一般の人はだれも押しません。
 最近の登録期間私の友だちも押していません。それは侮辱的な差別行為です。
 私は、指紋を押さなかったことで、今、告発されています。
 ここで、ひとつお願いがあります。
 こういう差別的制度をなくすようにして下さい。