第5回 指紋押捺の自分史 (1)

安壇泰

 「 キャピタリズム マネーは踊る」のプロモーションのため来日(2009年11月30日)したマイケル・ムーア監督が入国審査時に、指紋押捺を強要されたことを記者会見で明らかにした。
 自らのプライバシイーを守る立場から「なぜ」と問うと、別室に連れて行かれ「任意で指紋を採らせるか、国外退去で強制的に指紋を採らせるのか」の二者択一を迫られたという。
 2001年9月11日、いわゆる(同時多発テロ)を機に、2004年9月30日からアメリカ入国時に外国人に顔写真の撮影と、指紋採取を義務化した「US-VISITプログラム」が開始されるようになった。
 日本もアメリカに倣い特別永住者を除き、2007年11月20日から開始している。(目的は偽造旅券の発見とテロ防止といわれている)ちょうどその日私(特別永住者)は、ナイジェリア人(永住者)のG・O氏と外国から日本に到着した。 

 1年前にも彼と韓国に商用で訪れ、日本に再入国した時、同じ窓口で入国審査を受けたことがある。しかしこの日は違った。私は「日本人・特別永住者」の列に並び通常の審査を受けた。彼は外国人の列に並ばされ指紋採取と顔写真を撮られたのである。
 私は無理やり名誉日本人にされてしまったのだ。権利意識と人権感覚に敏感なG・O氏は、ささやかな抵抗を試みたが「応じなければ入国できない」の入管職員の一言でなす術もなく、引き下がるざるを得なかったのである。彼には日本人の伴侶と家族がいる。
 東京への車中では、空港での出来事が話の中心になった。「地下鉄サリン事件は何人が起したのか」「外国人が日本でテロ起したことがあるのか」「指紋を採るなら日本人が率先するべき」等々の怒りの反復が終始する中、東京駅に着いた。
 地下鉄サリン事件、連合赤軍がテレアビブ空港で乱射事件(1972年)を起した事件、犯人の岡本公三が、偽造旅券を使用していたこと等を、俎上に載せ比喩的に語り合った。
 そもそもテロリズムの概念とは、どのようなものであろうか。ブリタニカ国際大百科事典には次のようにある。
 
 テロリズム(terrorism)
政治的に対立する個人または集団に対し、その肉体的抹殺を含めて、組織的暴力を加える行為をいう。実行者が単独であっても、その動機に一定の政治的主張があればやはりテロリズムと呼ぶ。


 ありもしない大量破壊兵器を根拠に仕掛けたブッシュのイラク戦争(2003年3月)こそが、まさしくテロそのものである。アメリカのやった国家テロと、2001・9・11のそれは、破壊の規模は無論のこと犠牲者数も比較するのも憚るほどの大虐殺である。2007年6月時点おけるイラク人の死者は6万人以上である。
 
 私が外国人登録法により、指紋押捺を強要されたのは14歳のときである。当時中学生の脳裏にも指紋と犯罪は密接不可分に収納されていた。当日母に促され澱んだ気分のまま市役所に出向き、黒いスタンプに指を絡め台帳に採取されたときの屈辱感は、今でも鮮明に記憶の襞に残っている。
 市役所を離れ、浮遊しているような意識のまま、コールタールの緩んだ道路を走るトラックの騒音にまぎれ嗚咽した。根拠なく処罰された悔しさが意識を支配していた。帰宅し理不尽にも母に八つ当たりもした。私にとって朝鮮人であることを強烈に、意識させられたできごとでもあった。

 当時の在日朝鮮人一世たちは「外国人登録証明書」を指し「ケピョ」と言っていた。「ケピョ」とは犬の鑑札のことである。
 指紋押捺に到る歴史的経緯をなぞって見る。 在日朝鮮人・台湾人に対し1947年5月2日大日本帝国憲法の下で発令された「最後の勅令207号」によって在日朝鮮人・台湾人に対し国籍を剥奪したのである。
 日本国政府は朝鮮人・台湾人の日本国籍を「サンフランシスコ講和条約締結まで」認めるとしながら、天皇の名による突然の「外国人登録令」を発令し、この日公布、即日施行し「当分の間、外国人とみなす」と通告し朝鮮人・台湾人に外国人登録に応じるよう命令したのである。
 これに違反し登録しなければ「国外退去強制」事由になったのである。1947年5月2日が如何なる日であったか、まさしくそれは現日本国憲法の施行前日である。
 翌日(5月3日)からは、新憲法が施行されるため、新たな法律を制定するには国会の議決を必要とするためだ。
 しかし、5月2日までは天皇の名のおいて、法律(勅令)を制定できたのである。新憲法施行の前日に、急遽外国人登録令を制定した理由は至極簡単である。新憲法は国民の基本的人権を尊重しており、在日朝鮮人・台湾人に同等の権利を与えたくなっかたからである。

 サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)の日、外国人登録令を手直した外国人登録法が公布され、在日朝鮮人・台湾人は「見做し外国人」から「日本国籍を離脱した外国人」となった。この日から指紋押捺が制度化されたが執行されたのは55年以降である。
 在日朝鮮人の「ケピョ」に対する反発が起因していた。激しい反対運動もあったという。しかし同族相殺の朝鮮戦争(1950年ー1953年)に掻き消されてしまったのである。

 在日朝鮮人社会が共産主義の影響を受けるのを恐れた日本政府は、公安の観点から、犯罪予備軍、治安の対象としての位置づける一方、外国人登録法を根拠に熾烈なまでに、管理を強めていく。
 当時の「外国人登録証明書」は手帳形態になっており、写真の下に、指紋が押印されていた。その他、生年月日や職業・出生地など20項目近くの個人情報が記載されていた。まさしく「ケピョ」をぶら下げて歩かされていたのである。運悪く検問にあったりすると「外国人登録証明書」があるにも拘わらず時間をかけた確認作業が行われた。
 天皇制国家による植民地支配もとで、朝鮮人を徹底的に痛めつけた国家が、高度成長の端緒になった朝鮮戦争の特需で潤う一方、在日朝鮮人に対し法律的・制度的差別の徹底と「外国人登録法」を盾に、様々な人権侵害が行われた。その象徴として使われたのが「外国人登録証明書」である。提示義務や不携帯を理由に取締りを日常化したのである。
 銭湯からの帰りや、近所への買い物時でも「外国人登録証」不携帯や不実記載等の、些事で検挙したのである。それがどれ程過酷なものであったか、日韓国交正常化交渉の過程で、日本側の代表補佐を勤めた法務省の池上努参事官が自署「法的地位200の質問」で「日本にいる外国人は煮て喰おうと、焼いた喰おうと勝手」との見解がすべてを物語っている。

 しかし在日朝鮮人の反発や、意識ある日本人の内外への働きかけで日本政府は、お座なりの、改正や改定を繰り返してきた。82年からは登録開始年齢を14歳から16歳に引き上げられ更新期間が3年から5年になった。
 85年からは左手人差し指を左から右への回転方式から、人差し指をそのまま平面に押印する方式に改めた。その後無色のインクを採用した。87年からは登録証発効時(16歳)の指紋採取は一度きりになった。
 93年1月永住者については指紋押捺は廃止された。代替として「署名」と「家族事項」の登録が新設され、「外国人登録証明書」が手帳式からカード式になった。
 しかし現在に到るも「外国人は管理の対象である」からは一歩も踏み出していない。後述するが私は指紋不押捺の運動に連帯した。そして現在も外国人に対する差別政策に対する抵抗の証しとして不携帯を実践している。

 
 アカデミー賞の作品賞を受賞(1982年)した作品にガンディー(Gandhi)を見たことがある。物語はイギリスの植民地であった南アフリカ。一等車に乗車していたインド人弁護士のガンディーが、三等車への移動を強要され、拒否するや途中駅で放り出されるシーンが冒頭にあった。ガンディーはインドでは特権階級でありカースト上位であったが、列車での出来事が端緒になり植民地下の不条理と植民者の横暴に、戦いを挑む姿が描かれている。興味を惹かれ見た作品であったが、私にとって強烈に印象に残った作品であった。
 映画ではインド人に義務付けられていたパス(身分証明書)に新たに指紋押捺が制度として加わることへの拒否運動が高まる中、ガンディーが「パス焼却運動」で大衆を指導していく展開となっている。ボンベイに戻るや10万のイギリス人が3億5千万人の頂点に立ち君臨、収奪する姿に「非暴力と不服従」の徹底でインドを独立運動を導いていく展開になっていた。
 植民地下とはいえ、指紋押捺拒否運動の一定の成果がガンディーの人生を方向付けたことに共感と新鮮な驚きを感じたことを覚えている。
    次回へ続く