第2回 永山則夫との対話

安壇泰

 10月11日、NHK教育テレビETV特集「死刑囚・永山則夫 −獄中28年の対話」を見た。番組は永山をめぐり、事件の背景や獄中結婚した和美さん、大谷恭子弁護士らとのインタビューを通して事件を再考しようとするもである。
 事件は1968年10月11日永山則夫による最初の、ピストルによる殺人事件(東京)が起きる。その後京都、北海道、名古屋で射殺事件を犯すが、1969年4月に逮捕される。
 犯行時の年齢は19歳であったが「事件の重大性」から刑事事件として扱われる。

 番組を大雑把になぞって見よう。永山は、1949年 網走の呼人半島で生まれた。8人兄姉の7番目、家庭は困窮を極めたという。後に事件の映画化「裸の19才」をした新藤兼人氏は取材過程で、「こんな貧しい生活は見たことがない」と述懐している。
 永山の父は腕のいい林檎の剪定師であったが、博打に明け暮れ明日の米まで、持ち出した。母はそんな父に対し、何度も殺意を抱くが、幼い子供の行く末を考え踏み止まる。母は貧しさから逃れようと、子供達を連れ実家の青森に向かうが、汽車賃が足りず、則夫の兄姉とともに置き去りにする。4歳の時である。
 4人は網走港の小魚や街のゴミ箱を、あさりながら零下30度の中、飢えや寒さに耐えた。半年後、市の民生委員に発見される。
 そして永山が5歳になったとき、母親のいる青森に送られる。そこでの生活も、飢えを凌ぐのが精一杯であったという。学校にはほとんど行かず万引きや、家出を繰り返しながら生育する。1965年集団就職で上京した。
 そして青果店に就職した。仕事っぷりは経営者からも評価される。ところが、万引きをした過去を知られるようになる。人間関係を築けないまま、店を飛び出し、ねぐらを失い公園のベンチやトラックの荷台、港のコンテナの中で雨露をしのぐようになる。
 1966年横須賀基地に侵入、自動販売機を荒らした罪で逮捕される。その2年後「連続射殺事件」と呼ばれた一連の殺人事件に繋がっていく。

 テレビを見ながら永山則夫「連続射殺事件」の、ほぼ10年前に起きた在日朝鮮人、李珍宇による「小松川事件」が二重写しになった。事件は1958年8月17日に起きている。李珍宇は同じ小松川高校定時制に通う生徒を含む2人の少女を殺害している。
 1940年生まれ、犯行時の年齢は18歳であったが、少年法の適用外とされた。彼の成育環境もまた劣悪であった。トタン屋根の粗末な家に、難聴の母親、日当を飲み干してしまう父親、貧乏が故に遠足すら行けなかった。教科書を買うお金もなく、筆写しながらひたすら勉学に励んだ。書籍ほしさに窃盗を働き、保護観察処分を受けたりもした。学業の成績は優れており、生徒会会長に推薦された。中学卒業後は就職のため日立製作所、精工舎の入社試験を受けて見たものの不合格、零細な町工場を転々としながら、小松川高校の定時制に入学した。

 永山則夫と李珍宇、日本人と在日朝鮮人の違いはあるが、犯罪の背景に共通部分は多い。
犯行当時それぞれ19歳・18歳であった。本来刑事訴訟法の特則規定の法律である「少年法」を適用すべきであるが、恣意的に刑法が適用されたのである。「少年法」は未成年者には成人同様の、刑事処分ではくなく、原則として家庭裁判所により、保護厚生のための処分を規定している。永山は一審死刑、二審で無期懲役であった。この時の船田三雄裁判長の判決にメディアが執拗に非難を開始したのである。4人を殺害した犯人に対する感情を爆発させたのだ。
 船田裁判長は永山則夫の事件は本来、少年法該当の事件であることを、明確に認識していたという。この二審裁判のとき、弁護側証人であり永山則夫の伴侶である和美さんの法廷での発言は胸を打つ。
「永山とともに罪を背負い、償いの人生を歩んで行きたい」被害者遺族への深い思いやりに思わず涙腺が緩んだ。

 控訴審での船田判決の要諦は以下のとうり。
「死刑の運用は慎重でなければならない。死刑を下すのは日本の、どの裁判所で裁いても、死刑を選択すると思われるものに限定すべきである」「幼少期から劣悪な環境にさらされ、成熟度は18歳未満と同視しうる。国家の義務である福祉政策にも原因がある」「生涯を贖罪にささげしめるのが相当である」
  
 李珍宇の場合は、東京地裁から最高裁判所まで一貫して死刑判決であった。作家の大岡昇平氏や学者・市民が裁判の進行する過程で、民族差別や李珍宇がおかれた社会的環境が事件の引き金になったとの認識を示した。助命、減刑、嘆願の運動へと輪が広がった。これらの動きは韓国にも拡大した。
 運動の流れの中で、朴寿南氏との交流や他者との連帯のなかで自らの、アイデンティティー(正体性)に目覚める。

 他方、裁判の進行過程では、おどろおどろしい新聞の見出しが狂喜乱舞した。在日朝鮮人の犯罪に対する歴史的・社会的背景を一切無視した糾弾が熾烈を極めた。表層部分や現象面のみが拡幅され、凶悪犯人像がつくられて行った。
 まさに偏見裁判、メディアが下した判決であった。心理学の権威といわれた、宮城音弥氏(東京工業大学教授)が1958年李珍宇の精神分析をしている。その表現に愕然とするとともに、当時の異様さが伝わってくる。
「なぜ性格異常になったかと言えば、先天的原因のほか環境がある。まず犯罪の多い家に育ったこと。民族的なしこりも、相当深かったのではないだろうか」
 これは分析ではない。主観と偏見を吐露しているにすぎない。死刑判決を誘引する世間に迎合した煽動文書である。
 朴寿南氏との往復書簡や多くの支援者、他者との交流の過程で「性格異常」でないのは明らかである。「民族的しこり」の表現については、冷静に事件を分析しようとの意思が微塵も感じられない。「民族的しこり」を問題にするなら、日本人の在日朝鮮人に対する「民族的しこり」を問題にしなければならない。そして自省に立って李珍宇の犯罪を見つめるべきである。

 1961年8月17日、最高裁で上告棄却、死刑が確定する。1962年11月26日死刑執行、
事件からわずか4年3ヶ月である。永山則夫の獄中生活28年に比して、際立った違いを見せている。
 犯罪を構成する背景は一様ではないが、劣悪な環境と強いられた最下層の生活、両者の共通項は多い。収監されていた年次の差異はあるが、死刑囚の処遇にも、見えざる「国籍条項」が存在するのだろうか。

 東京新聞7月3日の記事に次の記述がある。「弁護士らでつくる研究会が1980年代に東京地裁で裁かれた約700件の窃盗事件を分析、日本人と外国人の量刑を調べた報告がある。浮き彫りになったのは、外国人の方が、実刑になる確率が高いという結論だった。
 例えば、85年1月から88年2月までの統計では、万引きの執行猶予率は日本人62.5%なのに対し、外国人はわずか23.6%」「前科・前歴のないケースで比べると、日本人の執行猶予率は100%なのに対し、外国人はわずか2割だった」
 記事の前段ではアジア系と白人の起訴率についても書かれている。「ズボン3本を万引きして現行犯逮捕された中国人は、前科・前歴なしでも実刑一年、万引きされ追跡した被害者に頭蓋骨骨折を負わせた米兵は執行猶予判決」

 番組は日本における死刑の現状や問題点、人間の尊厳に対する視点、国家が犯す殺人(死刑)を省察することなく、淡々と時系列的に事件の周辺と「事実関係」を追っている。飢餓感は拭えないが、救われた思いをする場面がある。
 大学を中退、日雇い労働をしながら、永山則夫の支援に奔走した、武田和夫さんにも触れている。「自分の成長過程でどうゆう意識を持ってきたのか。永山のような人を自分が排除してきた」と一人称で語り事件の本質を捉えようとしている。永山則夫の生い立ちを知る過程で武田さんは、共感・共苦し、支援のため座り込みや、手紙や面会で永山をは励ます、若き日の武田さんの姿に強い共感を覚えた。
 社会的未成熟と事件後も心を閉じたままだった二人。和美さんや、朴寿南さんとの出会いで獄中で初めて心を開く機会を得たのである。
 事件を直視できる様になり、贖罪しようとする人間の命を、断絶「死刑」することに、どれ程の意味があったのだろうか。国家による殺人もまた、新たな被害者家族をつくり出す。