新刊紹介『逆うらみの人生』中山千夏

 本書は1968年に出版された旧著を、本年1月1日、インパクト出版が装丁も新たに再出版した新刊書だ。

 故・丸山友岐子と知己を得たのは、1981年、物理学者の故・水戸巌に取り持ちされてのことだった。水戸は当時、少なくとも東京では唯一の死刑廃止運動体「死刑廃止の会」を立ち上げたばかりで、前年の参議院選挙の私のビラに「死刑廃止」とあったのに狂喜して、選挙のボランティアに駆けつけた。だから私は水戸巌とも知り合ったばかり、死刑廃止運動の世界的、日本的状況についても、彼から聞いて知り始めたばかりであった。
 関西弁丸出しでイケイケのちっちゃいおばちゃんと、やはり小柄だが楚々としていつも思索している学者とは、一点、熱烈な生命の肯定、という気質が、そっくりであった、と私は回想する。死刑廃止に熱心に取り組むのに不可欠の気質だ。ふたりは生涯親友だった。
 知り合ってすぐ、友岐子と私は「死刑をなくす女の会」を始めた。彼女はウンドウはキライや、ウンドウゴッコならやれる、と言っていたが、会の推進力はまったくのところ彼女だった。以後、95年に彼女が病死するまで、私たちはたいへん仲のいい同志だった。

 誰とでもウマクいくひとではなかった。人間が個人(自律で思索し行動する存在)と社会人(社会的役割で思索し行動する存在)の混合物であるとすれば、彼女は個人の面を多く表出させて生きている人物だった。社会人では生きにくい条件だったから、そうなったのだろう。容姿端麗とはほど遠い女だった、学歴が貧弱だった、たいへん貧乏な家に生まれた。とうぜん自意識が満足できるような社会的役割は得られない。それなら個人丸出しで生きたほうがいい。私も似ているので、その機微がよくわかった。個人に居直ったほうが生きやすい。個人友岐子は、頭脳明晰ながら情の深い気前のいい活動的な正義感の強い、怒るとやかましい、人間の弱さを理解する人物だった。

 彼女の代表作『逆うらみの人生 死刑囚・孫斗八の生涯』は、そんな丸山友岐子そのままの著作だ。
 ざっと言って、世の文にももっぱら個人の面で書いたものと、社会人の面で書いたものがある。友岐子も私同様、個人の面で書くのが得意なライターである。本書の処々方々で友岐子自身が吐露しているように、社会について、充分客観的に思える知識、学問が無い、と自覚している場合は、個人の面で書かざるをえない。そんなライターが他人を取材して書くと、同時に自身をも書かざるをえない。対象の選択からして、社会問題意識よりも個人的興味が優先してのことに違いない。
 友岐子には1968年当時、早くも死刑廃止の持論、それも心底から来る独自の廃止論が強くあった。その個人的事情から、死刑囚、それも万人が死刑に反対しないような死刑囚に興味を持ち、近づいた。それが在日朝鮮人の死刑囚、その「傲慢さ」で世間の話題になっていた孫斗八だった。そしてその対象人物にも、彼の社会人としての面よりも、個人としての面に深く迫り切り込んでゆく。この壮絶な一個人の生涯を、書き残さずにおくものかという情も顕な筆の冴えが、そこに読者を引き込んでゆく。そんな友岐子に読者も乗って、対象にのめりこんでゆく。
 本書が1970年(三一書房)、1981年(社会評論社)、1993年(現代教養文庫)と再版を繰り返し広く読まれてきたのは、そうした力によるのだろう。

 ところで、私や友岐子を個人に居直らせたのは、自身の我の強さもさることながら、私たちがぎりぎりフツウの「日本人」だったところにもあった、と思う。
 意識的にか無意識的にか、本書には「日本」「日本人」という言葉が目につく。友岐子は、誇るにしても貶すにしてもそれに自身を含めている。あらためて本書を読んで、そこに少々違和感があった。それは、ひとつには最近とみに私は自身を日本国民とか日本人とか(よほどの必要がなければ)規定しないからだ。たまたま日本国土に生まれ、日本国籍を与えられ、日本の一地に居住する、ルーツ不確かな個人、と規定している。これは個人で生きることを意識し始めてからの習慣なのだが、そうしてみると、自身を簡単に日本や日本人と規定するひとが不自然に見えてきたのだ。
 また、友岐子と交わした多くの話の中で、彼女が日本を背負っているとは、少しも感じたことがないから、不思議だった。でも無意識に背負っていたのか。今、彼女が生きていたら、聞いてみたい。
 それともこれは、私が今から言おうとすることを、読者に示唆するための言い回しだったのだろうか。

 私には何人かの在日朝鮮人の友人がある。彼らを通して近年は、在日朝鮮人の近代史を、少しは知り、小学校の同級生にもいた在日二世の暮らしを、少しは窺えるようになった。日本の文壇やマスコミで、二世三世が語り始めたことも大きい。その生活はフツウの日本人には思いもよらないものである。そう、孫斗八のそれに友岐子が衝撃を受けたように。もちろん、同じような生活史を持つ在日でも、ひとりひとりは違って成長している。ごくのんびりノンポリ風もいれば、ウンドウばりばり系もいる、穏やか同調一本槍もいれば、ヤクザもびっくりもいる。
 しかし、その多くが社会人としての上昇指向を持っている、と感じる。それなしに社会人として与えられる役割に甘んじていたのでは、生きることさえ覚束なかった、ということだろう。私が学歴なし知識なしの個人であり、それに居直っていられるのは、いつに私がナマケモノのせいである。しかし在日(にも差はあるらしいが)は、励んで励んで学歴や知識が並を越しても、せいぜいがやっと食えるだけ、その社会的役割は上昇しない。そもそも日本社会の勘定には入っていない存在なのだから。孫斗八の時代には、なおのことだったろう。
 そんななかで、個人に居直るのは不可能だろう。自身の個性の尊厳を自覚すればするほど、日本の社会人としてがんばり、上昇志向に拍車をかけて駆け続け、不当な役割を押し付けてくる日本社会に挑戦し続けるしかない、そしてついに自爆、というのが孫斗八の辿った路だったのではなかろうか。
 その責任を友岐子は感じていた。孫と、死刑まで孫を励まし続けた二人の親友(かつてのクラスメイト)について書いた最後に、こう述べている。

〔そんな友情に結ばれていた無二の親友にさえも、孫は朝鮮人であることをあかさなかった。彼がそれをうちあけたからといって、その友情にヒビが入ったとは考えられないが、孫をそこまで追い詰めていたものは、孫の性格もさることながら、何といっても、日本人のわたしたちの責任である〕(P31)

 友岐子を知っていた私には、これが彼女の真情であることを疑えない。

 さて、特筆すべき本書の特色、新刊書としての特色は、なんといっても「解説」だろう。それは、「解説」であるよりも、書評、それも著者が生きていたら悶絶したかもしれない残酷な激辛の書評だ。
 在日の苦境と日本社会・日本人の無理解について多くを割き、著書および著者については、こう一刀両断して終わっている。

〔まず、本書は死刑囚孫斗八の記録ではない。書かれているのは、若き日本人女性丸山友岐子の自己主張の記録である。〕〔彼女は、日本人の目から見た死刑囚孫斗八の姿を見事に描いた。そしてその視線は、現代までも続く日本社会の視線である。
 厳しい言い方をすれば、彼女の文章は情緒的で、孫に負けず劣らず自己陶酔的だ。彼女が言っているのは、「人格破綻者の孫斗八という死刑囚がいた」(中略…千夏)「そんな人間失格の死刑囚ととことんつきあって、ついには遺体まで引き取ったすごい私がいる」というものだ。
 その描き方は、いわば「死刑囚孫斗八」を切り取って描いたもので、孫斗八という人間の背景にある歴史・社会・経済のファクターは描き切れていない。〕

 最初、私はこんな「解説」を付して再版する出版社(インパクト出版)の気が知れない、と思った。出版は無意味だといわんばかりの「解説」をつけた書籍など、生まれて初めて見たからだ。
 しかし、今は違う。この「解説」があってこそ、今、再版する意味がある。そう思っている。

 「解説」の著者、シンスゴ(辛淑玉)も「おんな組いのち」の同志であり友だちだ。彼女は友岐子とは正反対、もっぱら社会人の面でモノを書く。(ちなみに、私見によれば、そのようなライターの代表は重信房子だ)。私より若いが、私や友岐子よりなん層倍もインテリで、歴史・社会・経済についてもなん層倍も知見があるので、そういう文を書くことができる。これは皮肉でもなんでもない、私が友岐子について言うのと同じ、スゴについての私自身の実感である。個人に居直らず、ほぼ常に社会人の面で生きるスゴは、それだけ縛られた個人がしんどいので、体の故障が絶えない。体をいたわれ、がんばるな、とは私は言えない。がんばらずにはいられないひとに向かってそれは、もっとがんばれ、と言うのと大同小異だろうからだ。
 しかし、スゴの「解説」が批判する諸点は、まさに私が先に書いたことと、表現は違っても同様ではないか。私は、自己陶酔的とも自己満足的とも思わない、ただ個人的な文だと言うだけで。それには、直に接していた友岐子が、いつも熱した石炭みたいなひとではあっても、自己陶酔や自己満足は少しも感じさせないひとだったことも影響しているだろうが。そして、個人(フツウの日本人の情の熱いおばちゃん)の著作であることがこれほど明白であれば、このようなノンフィクションもあっていいだろう、と思っているだけで。

 そうとわかると、いわばスゴの社会人的文体が、友岐子の個人的文体を斬りつけている、と私には見えてきた。続いて、孫斗八の知性がスゴに乗り移って、これを書いた、そんな幻視さえ見えてきた。
 孫斗八の知性もスゴの知性も、日本人とその社会に、まっこう斬りつけるために磨かれた。そんなスゴと「日本人として責任を感じる」誠意のかたまりである個人友岐子の並立が見られるのは、まさに、本書なればこそ、だろう。孫斗八の時代に較べれば、在日の個人が主張できるようになり(実名使用の増加や、小説など個人的表現の分野での在日の台頭)、それにつれてヘイトスピーチが起こり、応じて在日の社会的知性がいっそう磨かれてきた「今」なればこそ、ではなかろうか。
 ヘイトスピーチに顕著であるように、日本の社会的知性は、本書初版の時代に輪をかけて停滞しているように見える。最も知性が発揮されなければならない国政や法曹界が、ヘイトスピーチひとつ駆除するのに、在日の力を借りなければならない体たらくだ。だからといって「日本人として」恥ずかしい、とは私は言わないし思わない。そんな社会が私はキライだ、と言うだけである。

 断るまでもなかろうが、私はふたりのどちらが正しいなどと言いたいのではない。そんな比較は、両者が同じ平面に立っていればこそできる。だが、本書での友岐子とスゴは、大いに異なる面に立っている。友岐子はフツウの日本人個人、スゴは在日朝鮮人社会人。そうしたふたりのありようは、読者に自らの立ち位置の決定を迫らずにはいない。それが本書の新刊としての意味である。

 今こそ、ぜひ、本書を読むよう、広くオススメする。もちろん、「解説」も熟読して、本文との絶妙な「今」的斬り結びをごらんになるように。想念が(あなたのそれがくたびれ果てていなければ)多方面にわたって湧き上がり、あなたに新風を吹き込むこと疑いなしだから。
 そして、日本人としてでも在日としてでも、はたまた根無しの個人としてでもいいから、死刑制度について、人権について、考えてごらんになることを、丸山友岐子の遺志と共にせつに願う。「解説」はこう言っている。

〔日本社会が奪ったものの大きさを理解しながら本書を読めば、これから人々がどう壊れていくかも見えてくるはずだ。〕

(了)