第19回 専業主婦というお仕事 その4
私たち、こうして育てられました
「こどもは、誰が見てても、転ぶ時は転ぶ。あっと思っても、あんまりびっくりせんとき。どんな風に転んだか、どんな状況でなにが起きたか見とき」と、夫は学校(職場)に行く。
なので、一日中観てて夕食ができないこともしばしば。だって、これがまたよく動くんだわー。寝ないんだわー。絵本なんかみないんだわー。離乳食すっ飛ばして米櫃に顔を突っ込むんだわー。外に出たがるんだわ。
目を離した隙にハイハイで3階のお姉ちゃん(まみちゃん)に会いに行った日はみんなで青くなって大笑いした。翌日から、時々まみちゃんが昼間だけのお姉ちゃんになってくれた。まみちゃんは幼稚園も小中学校もすっ飛ばして短大に行き、保育士になった。
お外大好きな栄ちゃん。でも、10キロを超えたら強制撤去は不可能。なのでお弁当持って、気の済むまでお寺で石を積んだり、電車を見たり…片道切符のご近所冒険の毎日。
あの頃…傾いた体を支えてくれる行政サービスはなかった、私たちが暮らしたのがきっかけで、社協が発足し、おばちゃんたちの団結力で子育てボンティアが作られた。それでも、傾いた体は時々悲鳴を上げた。救急車に乗るたびにご近所さんから声掛けが増える。母も父も栄ちゃんも海有山有人情有の中で豊かに暮らした4年だった。
さんまさん、子はかすがいの甘納豆ちゃうでー。子は地域の活性力や。
半径1キロぐらいのお顔にはなったんだけど、幼稚園も小中学校も遠く、母は行けない。やむなく実家近くの幼小中が並ぶ所に越した。当時、籍だけ保育園生だった栄ちゃん
「きっとお引越しも幼稚園も学校も楽しいよ。栄ちゃんはおりこうさん」
みんなの魔法にかかって、新転地、栄ちゃんは幼稚園を一日も休まなかった。
栄ちゃんが、泣きわめくことはなかった。ゆえに、迷子の時は困った。年に二度ほどの迷子案内のたびに「お母さん叱らないでね。この子はいつも館内から出ず、自分の名前を言い、お母さんが迷子になったので探してくださいと言うので。」と私が諭される始末。
19歳で大きな優しい父が他界し、約10年。人生の迷子になっていたのも母だったんですかね。あなたは泣きたくとも泣けず、あらゆることにチャレンジしていた。きっとそれだけだったんでしょう。
夫は「学校は教育の一部。成績表は先生の成績・栄ちゃんはよく頑張ってる」と毎回頭をなぜるだけ。高校受験の時に初めて成績表を眺めて、私の耳元で「ほんまに普通やねんな」と囁き「高校行きたい?」と息子に聞いた。「私学でも公立でも、高校でなにを学びたいかどんな将来にしたいかしっかり考えて選びや」と言っただけ。
まじめな父ちゃんとええ加減な母ちゃんだったけど。「どんなこどもも迎える」覚悟は一緒にした。そして「その子といろんな経験がしたい」と家族で遊びたおした。
お父さん、今も、この子は地域のお顔のひとつにしてもらってますよ。まだ少し心も頭も固いですが、頑張りやの先生です。
あの頃のあなたに似ています。