*私は、国家による冷静な殺戮の制度「死刑」に反対します*
 
「宅間死刑囚の処刑について」
 
おんな組いのち世話人 辛淑玉
 

 2004年9月14日、宅間死刑囚が処刑された。
 国家が冷静に人を殺す「死刑」という制度が、これほど見事に敗北したことはないだろう。

 宅間死刑囚は、教育校と言われる大阪池田市の小学校に入りこみ、逃げ惑う子ども達を無差別に殺し続けた。
 逮捕後、彼は、「裕福な家に生まれて親に愛され、エリート教育を受け始めたお前たちだって、こんなどうしようもないオッサンに数秒のうちに殺される」と語ったという。
 その言葉は、私の耳には、「ざまぁ見やがれ!お前らのようなエライさんなら、オレをすぐ消してみろよ!いつもオレを見下していたお前たちならできるはずだろう?ホレ!お前たちの大事なガキどもを助けてみろよ、やってみろよ!」という、世間に対する挑戦そのものに聞こえた。

 「早く死刑にしろ」と、自らの「死」をいとわなかった彼のような「死の選択」の前では、死刑という国家の合法的恫喝手段に何の効果もなく、今後も国家はこのような状況に対して無力であり続けることが白日の下にされされた。
 これが今回の結末だろう。
 彼を殺しても、問題は何も解決していない。

 宅間死刑囚を殺すことを急いだ日本政府の姿は、ブッシュのアメリカの姿と重なって見える。
 アメリカが我が物顔で暴走し、この世の春を謳歌し出したとたん、テロという、従来の国家間の安全保障理論が想定しなかったとんでもない反撃に直面した。
 同じように、宅間死刑囚による無差別殺戮は、「治安」と「安全」を売り物にしてきた日本社会の安全保障を根底からゆさぶったのだ。
 いま、被害者でもなく加害者でもない私がすべきことは、加害者を特定し、加害者に罪を認めさせ、被害者を救済し、再発防止をすることだ。しかし今回の処刑では、現行犯で最初から加害者が明らかだったこと以外何一つ成し遂げられず、国家という代理人による感情的な見せしめで終わってしまった。

 ここ数日、メディアに出てくる巷のコメントを聞いていると、悪いことをしたのだから殺されて当然、悪い奴らを全部殺せば世の中は良くなる、といった空気が少なからずあるように感じられる。
 仮に悪い奴らを全部殺して世の中を良くしようとしても、悪い奴らが生み出される仕組みは何も変わっていないのだから、突然誰かに何の理由もなく殺されるかもしれないという不安は一向に解消されない。
 多くの人々は、実はそのことを心の底で感じている。だからこそ、ヒステリックに処刑を支持しているのではないだろうか。
 その姿は、本当はテロを解決できないことが分かっているのに、とにかくイラクに侵攻しなければ納まらなかったブッシュの心理と似ているように思う。

 私の中にもある、「あいつだけはぶっ殺したい!」という感覚、そういう邪悪な心というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるものではないだろうか。宅間死刑囚は、大衆のそうした憎悪を一身にひっ被り、同時にその醜さを見事に見せつけたのだ。
 「ほら、キレイごと言ってるあんただってこんなに醜いじゃないか。俺と一緒じゃん」と。
 宅間死刑囚を処刑したことで、わたしたちの社会は彼に完敗したのだ。

 私たちは、理性を取り戻し、そして本当の意味での人間の社会を作り上げていくにはどうしたらいいのかを真摯に考えるべき時にきているのではないだろうか。
 「死刑」は、人を人と思わなくなった社会の象徴であり、それを維持し続ける社会に、命を大切にするという基本は根付かない。
 テロに勝つための国家テロがいかに何も産まないかを、私たちは歴史から学んできたはずだ。
 私は、人間として生き抜きたい。だからこそ、「死刑」に反対する。

   2004年9月15日