あのすば・・・・ 第12回

何を持つのか、何を持たないのか

田中優子(在日横浜人)

 松岡大臣の自殺、自衛隊の情報保全隊文書、神田明神における佐高信との対談、年金問題、その他いろいろ今月は書きたくなる出来事がたくさんあって困り果てた。その中で、このところずっと気になっていることがひとつある。今年になってから『論座』で展開されている議論だ。
 まず1月号で赤木智弘が「『丸山眞男』をひっぱたきたい」という文章を書き、4月号には、7人の執筆者による、それに対する応答文が掲載された。6月号で、赤木智弘はそれら応答文に対する「けっきょく『自己責任』ですか」を書く。7月号では、今までの経緯をふまえ、「特集――格差、保守、そして戦争。」が組まれている。他方、『オルタ』5月号は赤木智弘と雨宮処凜の対談を載せ、その雨宮処凜は『群像』で「プレカリアートの憂鬱」を連載していて、それが面白い。

 これらのテーマはつまり、「ほんとうの問題は何かのか」に尽きるだろう。右傾化、憲法改正、教育法案など、動きを見るべき事柄はたくさんあるが、その根底でこの10年間、あるひとつのことが進んでいた。それは若年低賃金労働者いわゆるフリーターの急激な増加と、そこに起こった怨念の蓄積である。赤木智弘の文章は、フリーターの実態を深くは知らない私にとって衝撃的なものだったが、しかし一方で、私のセンサーが「どこかおかしい」という信号を発している。心がひっかかるのだ。納得しながら納得できない。こういう場合は書くしかない。

 「持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない」(赤木)という考えかたはつまり、歴史上何度もくり返されてきた下克上や一揆の発想である。江戸時代では無数の一揆が起こり、戦国時代や明治維新では、下克上は内戦という形でおこなわれた。そしてほんの40年前には、「戦争」の箇所に「革命」が入ったものだった。「持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや革命はタブーではない」と。いやタブーでないどころか、「革命しかない!」と叫んだものだった。「暴力革命」という言葉が入ることもあった。

 しかしなぜ、この箇所に「戦争」が入るのか?下克上も一揆も革命も、確かに持つ者と持たざる者の戦いである。しかし戦争というのは国家間のものであるから、持つ者と持たざる者が戦うのではなく、持つ者が操って持たざる者同士が戦い、持つ者がさらに持つのである。そのために戦争という仕掛けがある。そもそも題名にもなっている丸山眞男を、東大を出たからというだけで「持つ者」と考えるのは、かなりへんだ。
 しかしこういう反論こそがすれ違いを生み出す、ということを『論座』7月号で萱野稔人が指摘している。赤木智弘とその背後にいる何万人もの若者が抱いているのは、言葉通りのことではない。ここで言う「持つ」「持たない」の目的語は財産でも職業でも家柄でも学歴でも、また命でさえなく、「アイデンティティ」「存在の承認」「自己肯定」なのである。論理的には、「命よりアイデンティティの方が大事」「命とひきかえに自尊心を」ということになる。ならば戦争でいいのだ。戦争で死ぬのがいちばん、自尊心への近道なのである。靖国神社システムの思うツボに、きっちりはまっている。

 松岡大臣が自殺したとき、石原慎太郎は「サムライだ」とほめ称えた。「またあのバカが」と思ったが、考えてみれば確かに、武士には「命とひきかえに自尊心を」という考え方があり、主人(藩主)や家や自分の名誉のために切腹することが許されていた。江戸時代は国民国家ではないので、それはそれでひとつの機構のありようだった。しかし今は主権在民の国民国家だ。政治家はそれを前提に立候補し、国民に選ばれ託されている。にもかかわらず政治家は未だにサムライ的自尊心をもてあそんでいる。松岡大臣は国民のための政治よりも、仲間の政治家と自分の名誉を守ることのほうが大事だったのだろう。

 命より自尊心の方が大切だという価値観は、自殺にもつながるが戦争にもつながる。ここで考えなくてはならないのは、承認、自己肯定、自尊心は、外から与えられる評価によってしか生まれないということである。ナショナリズムは、在日でなくて日本人、女性でなくて男性、であることで心を満たす道具と化しているという。相対的な比較の上でようやく成り立つ自己である。これこそ競争社会の狙いどおりだ。貧しい農家の出身で、「米の自由化反対」の先頭に立っていた松岡大臣は、その志を売って大臣のポストを手に入れた。志より大臣のポストを選び、国民に対する責任より名誉の死を選んだ。彼も競争社会のお手本である。 大臣とフリーターが同じ価値観で生きているのが、現代社会なのである。