第342回 老人を生きる?!

中山千夏(在日伊豆半島人)

そろそろ定年ですか! サコせんせがねえ!

はい、いかにも芸能者に定年は無いのです。
自営業だから、どう働くかは、いつを定年にするかも含めて、自分で決められるのね。
私の意識では、十余年前に東京を引き払い「伊豆半島人」になってからは定年後時代。
50代だったけど、なにしろ8つやそこいらからオカネを取ってシゴトをしてきたわけだから、意識としては半世紀ばかり就職していたわけで、もう定年でいいだろう、といったところ。
それからは、ふつうの労働者になぞらえるなら、シゴトは「定年後の属託」でやってきました。カイシャに居残る多くの友人たちと同じで、定年後も収入は必要だし、シゴトも好きだからね。それに、これも多くの高齢者と同じで、社会とかかわり続けたい、という欲求もある。シゴトやボランティアをする定年後の高齢者と、そこは同じなんじゃないかな。

高齢者どころか、私は去年、「後期高齢者」になりましたよ。
なんでもワガコトとなると考えるものです。
カラダもまさに老朽化してきたもので、いやでも考えてしまいます。
「老人」とはなんぞや?! と。
そして気がついた。現代社会における「老人」は、70年代リブのなかで私たちがやっきになって改善しようとした「女」とそっくりだって。

「女」も「老人」も、罵詈雑言の対象となる一方で、賛美されある種の優遇を受ける。
その肉体や生理は、自身の管理を容易に否定され、医療ほか社会の都合で扱われたり、暴力の対象にされたり、企業や詐欺師のエジキにされる。
一般に労働者としての価値は、「女」はヲトコに比べて、「老人」はワカモノに比べて、低く見積もられる。
これではかつて女がそうだったように、老人自身が老人を否定し、あるいはその弱点に居直り、若者(男)を威圧したり媚びたりして生きようとするのも、ムリありません。

こう気がついた時、私は喜びました。
なぜなら、老人をどう生きればいいか、その予行演習をリブでやったようなものだから!
まず、「私は女だ!(老人だ!)」とまっすぐ自認する。そして自分のカラダを自分の管理下に取り戻せ。これぞ女(老人)が自分の人生を生きる第一歩!
欧米のリブはそこから始まった。私も仲間といっしょに『からだノート』を出版してまっすぐ女を自認し、肯定し、自分の身体、自分の人生を、自分のものにしよう、と訴えた。「老人」もそのセンで生きればいいのだ!

かつて「男のような女」を讃美したのとそっくりに「若者のような老人」を讃え、お定まりの美を女に押し付けたようにお定まりの「壮健美」を老人に押し付け、女が美容にカネをつぎ込むよう仕向けたように老人が「若さと長寿」にムダガネをつぎ込むように仕向け、最低の年金で生きろという世の中を見るたびに、切歯扼腕しながら、よし、私は私の老人を生きてやるぞ、と決心しています。

それと関係あるのかないのか、いろいろなことが以前よりしっかり味わえるようになった気がする。とりわけ、自然がね。自然は私、そんな感じ。
そして今のところ、医者にも薬にもサプリにも無縁で、老人の健康を確保しています。
このセンで、よぼよぼと我をとおして生き抜ければ最高なんだけど(^o^)