第331回 戦争と平和

中山千夏(在日伊豆半島人)

サコちゃんには話したよね、私の祖母は熊本県菊池の在。今も祖母の弟の系統が「実家」にいます。
その娘である我が母は、台湾生まれの大阪育ち。

菊池の豪農のおじょうちゃんだった祖母が、たぶん素行芳しからずによって(母の推測による(笑))当時の日本の植民地、台湾の親戚に送られました。
そこで、福井出身の小学校の先生だった祖父と出会い、これまた母の推測によると激しい恋愛結婚をした。そして生まれた娘が母。

詳しい事情は知りませんが、まださほど不穏ではないころに、祖父は台湾を離れ、大阪の小学校に転任します。妻と一人娘を連れて。
だから母の意識での故郷は大阪です。父親の転任につれて何度か転校はしましたが、基本的に大阪の都会で育ったようです。
オジョウサン学校だった(らしい)夕陽丘という名の女学校を卒業するころ、太平洋戦争に突入します。
いよいよ戦争が激しくなった時、一家は母(つまり私の祖母)の実家につてを求めて、九州に疎開しました。「ふつう、福井に疎開すると思うのに、おかしいよねえ、妻の実家に頼るなんて」と母はいつも首を傾げていました。
しかし、そもそもお祖父ちゃんが台湾に移住したのは、父親(彼も学校の先生だったそうです)が台湾で新聞事業を起こす決心をし、すっかり家を畳んで、長男を連れて海を渡ったため、といいますから、もう頼れるほど近い親戚が福井にはなかったのかもしれません。
とにかく祖父はさっさと熊本への疎開を決めて、なんと、先に出発してしまいました。それほどの事態とは思えなかった母と祖母は、イナカへ引っ込むのが大いに不満で、憂さ晴らしにどこだったか温泉地に寄って遊び、ゆっくり船旅を楽しんで九州へ渡ったそうです。
疎開先は、菊池に隣り合う山鹿の、小さな物置小屋のような家でした。もちろん持ち主の好意による借家です。
20年くらい前、まだ残っていたその家を見る機会がありました。家もまばらな町はずれの、本当にちっぽけな家でした。裏のやはり小さな家にも、ほかの疎開者が住んでいたそうです。
祖父は熊本市でシゴトについており、母と娘で暮らすことが多かったようです。祖父の予想どおり、戦況が悪くなってゆきます。
ある日、熊本市の方角の空が真っ赤に燃えました。祖父は戻ってこない。てっきり焼け死んだ、と母娘は落胆しました。すると三日目くらいに、ひょっこり戻って、空襲の話をしたそうです。

戦争は終わりました。しかし暮らしは、戦中に引き続いての、いわゆるタケノコ生活。脱ぐ皮が尽きると、戦後どこでもあったシロウトの食べ物屋の手伝いなどして、母娘は食べ物を稼ぎました。
祖父は可能になると早々に、大阪のツテをたどって熊本を離れました。カタがついたら妻子を呼ぶ計画で。
けれども、妻子は、特に娘は、もう大阪には戻れないだろう、と諦めました。婚期が去りかけているのを恐れもしました。
そこで、村の青年団で知り合ったハンサムな八男坊に目をつけました。なぜだか私にはさっぱり理解できない理由で、彼女たちは婿養子をとるのが条件だった。だから、子沢山の家のハンサムな八男坊はチョウドヨカタイだったのです。

そして生まれたのが、私です。
つまり、広い意味で、私も戦争の落とし子なの! 戦争がなかったら、母は誰か別のひとと結婚して、別の人間を産んでいたに違いないですからね。
その後も、戦争や疎開事情を抜きにはできない事情があって、母は幼い私を連れて離婚しました。だから私はそのハンサムな父を知りません。

私が覚えている最初の記憶は、宮崎神宮に近い家に、再婚した母とその夫である父と、3人で暮らしていたことです。
ヤクショに努めていた父はとても優しくて楽しくて、私のお気に入りでした。そして彼もまた、なかなかハンサムでした。
今はもう、九三歳、山鹿で幸せに暮らしています。
私が16歳のころ、なにやら母の怒りをかって離婚しましたが、別の妻子に恵まれていい老後を送っています。やれやれ、よかった。

1950年ごろだったでしょう、私たち3人は祖父母が暮らしていた大阪に移り、薬剤師だった父は母とともに薬局を開業し、祖父と死に別れた祖母も同居し、私は平和という名の幼稚園に通い始めました。
まさに平和。私は平和しか知りません。

あれまあ、たいした回顧録を書いてしまった。
「人吉」という地名があまりに戦争を思わせたので、つい。
母たちの口からよく聞いたそれは、戦後と結びついています。母の一つ話。
「山鹿の道路を歩いていてたらアメリカのジープが止まってGIがなんか叫んでるんよ。人だかりしてるんだけど、みんな、なに言ってるかわからない。私もそばへ行って聞いたら、前後を指さしてオオムチャ〜、オオムチャ〜と言ってるの。あ、大牟田はどっちだ、と聞いてるんだな、と思ったから、オオムタ、こっち、と教えてあげた。ジープはそっちへ走っていった。そこではっと気がついたんよ、私が教えたのは逆方向、人吉へ行く方向やったんよ。よういわんわ、わっはっはっは」

平和は民草の宝物ですね。
それを思わせるよすがになるとしたら、
戦争遺跡、ほんとうに大切だと思います。