第308回 台風のおかげで、日向神話の話

佐古和枝(在日山陰人)

「振媛文学賞」、なつかしいです!黒岩さんと千夏さんv.s.森先生・門脇先生と審査が分かれたって話、おもしろいですね。かつて、森先生がお酒を飲みながら、「ワシが卑弥呼で小説を書くならなぁ」って粗筋を語ってくれたことがありますが、「絶対アカンわ」というほどオモロナかった(;^ω^) 学者と作家の視点は、やはり違うでしょう。
今回のこのテーマでも、千夏さんは作家であり、サコは学者の側だから、問題意識のもち方もビミョーに違うのかもしれませんね。千夏さんは学者に期待し、サコは作家に憧れる。どちらも同業者には、つい辛口になる(^^;) 
でも、他人が見たら「くそおもしろくない」と見えることが、本人には楽しくて仕方ない。考古学徒って、まさにそういう輩です。「神は細部に宿る」って、千夏さんに教わった言葉です。歴史の神も、「くそおもしろくない」とみえることに宿っていると思います。

ところで、この週末(21日、22日)、超大型台風の接近で、宮崎で開催される学会への出席を断念。思いがけない2連休となりました。それで、この原稿を書いています。
宮崎は、古代の日向国。不思議な土地です。記紀の神話では、天孫降臨の地。高天原から「日向の高千穂峰」に降ったニニギ命→ヒコホホデミ→ウガヤフキアヘズ→イワレヒコ(神武)と、南九州で過ごします。で、イワレヒコが思いたって船出して、大和に移住して初代天皇に即位する。ニニギからウガヤフキアヘズを「神代三代」とか「日向三代」といい、その物語を「日向神話」とも言います。

しかし、そもそも葦原中国(=地上世界)を治めていた出雲の大国主命に「この国を譲れ」といって引退させ、その後を引き継ぐためにニニギが降りてきたのに、なんで日向なのか。不思議ですね。
また、出雲神話では出雲や伯耆・因幡の地名がたくさん出てくるので、出雲に根ざした神話だといえるのですが、日向神話にでてくる地名は「高千穂峰」と、鹿児島県南さつま市の「笠沙」岬くらいです。有名な海幸・山幸の神話もコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの神話も、とくに日向との繋がりは見えてこない。別に、どこで語られてもいいような内容です。

これらの神話が南九州に由来するといえるのは、隼人との関わりなのです。ニニギ命は、笠沙岬でアタカシツヒメ(またはアタツヒメ)に一目惚れして、求婚します。そして、2人の間に生まれたのが海幸彦(ホスセリ、またはホデリ)と山幸彦(ヒコホホデミ)。兄の海幸彦が隼人の祖先、弟の山幸彦の孫がイワレヒコ(神武)です。

 

このアタカシツヒメの「アタ」とは、南九州の二大隼人勢力のうちの一つ、薩摩半島周辺を根拠地とする「阿多隼人」の「アタ」です。イワレヒコの最初の妻も、阿多小椅君の妹の吾平津姫、やはり隼人の女性です。隼人は、記紀伝承の世界でも律令体制下でも、異民族のような扱いで差別されています。それなのに、記紀の神話のなかでは、天皇家の先祖伝承で重要なニニギとイワレヒコの妃とされている。神話のなかでしばしば重要な役目をはたす「塩土老翁」も地元の有力者で、隼人系とみられます。なぜここで隼人なのか。不思議です。
 
日向神話の解釈には諸説ありますが、そもそも、ヤマト政権が南九州の隼人勢力と本格的にむきあうのは7世紀になってからのこと。隋が琉球を攻めたことから、種子島や奄美大島などの南島に政情不安定が広まって、ヤマト政権に朝貢にやってきます。そういう動きが南九州にも波及したようで、7世紀末の天武朝には、阿多隼人と大隅隼人が初めて登場し、饗宴を受けたり、相撲を披露したりしています。ちょうど『日本書紀』の編纂作業が進められている時期であり、天武自身は『古事記』を作っていたかもしれません。
そこで、天皇家による南九州支配を正当化し、隼人が天皇家に服属せねばならない由来を日向神話で説いたのだ、という説が有力視されています。それにしても、なんだか強引で不自然ですよね。
ついでに言うと、隼人の根拠地は、8世紀初頭に日向国から分かれた薩摩国と大隅国、つまり鹿児島県域なのだから、「日向神話」といいながら、宮崎県はあまり関係ないのではないかと(;^ω^) 登場する神々を祭る神社とか伝承地というのは、神話が作られた後にできた可能性もありますからね。

それでも、「日向神話」といわれ、宮崎県が天皇家の故地のように言われるのは、西都原古墳群の存在もあるのかなと思います。古墳時代の南九州は、地下式横穴墓とか地下式板石積石室墓という個性的な墓を造る地域であり、前方後円墳や円墳、方墳など、いわゆる一般的な古墳はごく限られた地域にしかありません。しかし、九州最大の前方後円墳は、西都原古墳群のなかの女狭穂塚(全長180m)。その隣の男狭穂塚は前方後円墳の前方部が短い帆立貝式古墳としては全国最大(全長175m)。いずれも5世紀代と推定される古墳です。ちなみに宮内庁は、明治28年に男狭穂塚をニニギ命の、女狭穂塚をコノハナサクヤヒメの陵墓参考地に比定しています。そんな話はさておいても、宮崎平野の古墳をみると、古墳時代の初頭からヤマト政権と通じる勢力がいたようです。いえ弥生時代から、宮崎はなぜか土器が瀬戸内系で、稲作文化が希薄な南九州のなかで異質な感じがする地域です。考古学からみても、不思議な国。

古代の日向国について、いろんなことをテンコ盛りに書いてしまいました。「細かいことを羅列して、ワケわから〜ん」としたら、そこに神様が宿っているってことでお許しあれ!