第293回 大日本帝国への回帰はイヤ!

中山千夏(在日伊豆半島人)

まったく呆れますね!
腹立たしいのは「国民の休日」が政府によって決められて、反対しても決まってしまう、ということ。結局、政府そのものが保守勢力では、この帝国主義への回帰は、どうにもならないってこと。
だからね、私も、旧海軍記念日まで入っている「国民の休日」なんか、無視です。おたくの学生と同じ、休めりゃなんでもいい、でいないと、アタマ破裂する。

明治政府が決めた建国記念日を踏襲するということは、大日本帝国の史観と政治思想を、そのまんま肯定するということでしょ。
つまり「大日本帝国への回帰」。
これははっきり、反民主主義保守勢力が敗戦後から画策してきたことだった、と最近、思ってます。70年代に学生たちが「大日本帝国打倒!」なんて叫んでいると、なあに時代錯誤なこと言ってんのぉ、って感じでいたんだけど、あれは、敗戦後、民主主義熱の裏で進行していた政治状況を、まさに見つめた結果の叫びだった、と今は思う。

子供の頃は、世の中どんどん非戦と民主主義に向かっている、という情報を真に受けていた。だから、レッドパージの果の警察予備隊の設置とか原発政策の開始とかさまざまな「大日本帝国」への回帰については、我が家のようなノンポリ一般民衆のコには全く伝わっていなかったのね。
今も同じなのかなあ、少しはマシになっていると信じたいけど。
民衆が大量の情報を得られるようになったのは確かだけど、逆勢力による情報操作も強力になんてるから、楽観できないよ。
そして学校教育は完全に政府が握ってきたし、政府は完全に反民主主義保守勢力が握ってきたし、最近ではもう遠慮なしに明治政府の教育を打ち出しているものね。

最近のことよ、『学問のすすめ』読んだの。考えてみたら、私は「ためになる」読書はぜんぜんしてこなくて、興味のおもむくまま、となると各種作り話、でなければ自然科学、ということになって、エライひとたちのご託宣みたいなのは、見事にひとつも読んでいないとわかった。「人は人の上に人を造らず・・・⇒福沢諭吉⇒慶應義塾」と知ってはいたのよ。試験やクイズに出るからね。
それがなんでいまさら読んだかというと、元高校教師の友人(70過ぎの男子)が「一万円札見る度に吐きそうになる」と言うのよ。その場には「一万円札、誰だっけ。あまり見ないから知らない」なんて友人もいて、変な盛り上がり方したんだけど、その元教師が「あれは諭吉の言葉じゃない!」「諭吉のどこが民主主義なのだ!」「『学問のすすめ』こそ反民主主義の源泉だ!」と、遠慮がちながらあまりに激しく言うもんで、読んでみた。近年、諭吉は朝鮮侵略の立役者、とかいう批判もちらほら聞いていたので、少し興味も湧いていたし。
むろん、青空文庫で読みました。現代はPCさえ使えれば誰でも何でも無料で読める。そこは実に民主的世界です。IT企業のありようはまさに帝国主義的ですけれど。

いやあ、驚きました。まさか、の出だし。元高校教師の指摘どおり。
〔「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。〕
諭吉の言ではなく、〔と言えり〕つまり「という言葉があります」という、いわば持論を述べるキッカケに使ったアリモノの言葉だった。で、その持論たるや、乱暴に言うと、「士農工商、富者貧者、その分際はいろいろだが、人間に上下はない、分際にかかわらずやる気さえあれば富めるし学べる、また身分にかかわらずだれでも上下無く日本人なのだから、こぞって学問し日本の国家に貢献すべし。ついては人文学は国家の役にたたんので、科学・経済の学問=実学に励むべし」というもの。

ヒューマンライツの言葉は知っていても、その中身には反対だったと見える。将来、植民地とする近隣の国民への蔑視もある。
そうか! 明治はこれで始まったから帝国主義国家になり、それが敗戦で潰れても、相変わらずこれでやってきたから、こういう世の中――国民の福祉や機会均等は二の次で、個人を競わせ、人間のなんたるかを学ぶ人文学を退け、化学、工学、経済学、を実学として重視し、科学技術と経済活動をおおいに支援し、ヘイトスピーチに甘く、国力増強に励む現代日本国になったのか! 
原発に反対する元教師が吐き気を催すのももっともだ、と納得したわけでした。

こんな福沢諭吉を民主主義の祖であるかのように持ち上げてきた敗戦後の教育界は、ずっと腐っていたのでもありましょうか???