第275回
新春特別企画 サコチナの土器鑑賞会 これであなたも土器メキキ!
第5回 古墳時代 前編

在日伊豆半島人=中山千夏
在日山陰人=佐古和枝

チナ いやあ、熊本地震にはびっくりしましたね。
サコ ほんと! 千夏さんをあさぎり町に案内してから、間もなくだし。
チナ 祖母の実家がある菊地が大揺れ。親戚もしばらく避難生活してたようです。土器を展示したり収蔵したりしている施設は、たいへんだったろうなあ。
サコ 展示品もそうですが、遺跡や伝統的文化財も被災しています。熊本城の無残な姿はよくニュースに出ましたが、熊本県は壁画古墳が多いので、心配です。それと、個人蔵の古文書などがゴミと一緒に廃棄されてしまうことも危惧されています。
チナ そうかあ、離れていると見えない問題がいろいろあるのね。しかし、今回もつくづく思いましたが、天変地異というものは、予想がつきませんね。すべて予想外。予想外だから天災なわけで。したがって予想外の事態が起きると想定して防災計画を立てなければいけない。
サコ ですよね。
チナ 事故の原因を、想定外の天災だったから、と言うのは言い訳にならないっ、責任逃れだ!
サコ そうだ!
ふたり 原発やめて!!川内停めて!!
チナ と吠えたところで、今はシュクシュクと土器鑑賞会に戻りましょ。
サコ はい。シュクシュク。

≪古墳時代≫

チナ 今回は弥生土器に続く古墳時代の土器。古代の土器の時代の最後に当たる、と言っていいんですかね? 
サコ っていうか、サコの守備範囲の最後の時代に当たる、です(汗) で、古墳時代とは、前方後円墳が造られた3世紀後葉から6世紀末ないし7世紀初までをいいます。
チナ へええ、前方後円墳が規準なの?
サコ いつまでを古墳時代とするかは、研究者によって意見の分かれるところですが、単に「古墳が造られた時代」とすれば、7世紀末から8世紀初頭にも高松塚とかキトラ古墳とかあるし、北海道式古墳などは平安時代ですしね。どこで「古墳時代の終わり」とすればいいやら、よくわからないでしょ。7世紀になると、社会情勢が大きく変化するし、前方後円墳は造られなくなり、それ以外の古墳の様子も変わってくるので、古墳時代は「前方後円墳が造られた時代」とするのがいちばんスッキリすると思います。
チナ 了解です!
サコ では、本題です。古墳時代の土器。これには、土師器(はじき)と須恵器(すえき)があります。まずは、土師器から。

≪土師器≫

サコ 土師器は、弥生土器の流れをくむ、野焼きでつくる土器です。作り方の基本は同じですが、古墳時代になると弥生土器とは違う特徴があらわれます。


土師器

チナ ふむ、そこをよく聞いておかないと。
サコ 古墳時代になって、畿内に登場するの土師器を「布留(ふる)式土器」といいます。
チナ おお、それ森浩一センセ思い出す! 女に年を聞いて30近かったりすると「フルシキ土器やな」とにやにやして言うのが、お得意のギャグだったでしょ(笑)
サコ 我が師匠ったら、もう(;´・ω・) 「なんで布留式なんですか?」ってこっそり聞いたら、「実年代(年齢)がよくわからん」と。
チナ うぷっ、セクハラもんだよね、考古学では優秀な学者だったけど(笑)
サコ 考古学界は今よりもっと男ばっかりだったから、全体にフェミのケ無しでしたね。
チナ だいたいどこでも70年代まではそんなもんよ。でも森センセはかわいらしいひとだった。懐かしいなあ。
サコ そう言っていただければ、ほっとします(*_*;
チナ あ、脱線脱線。で、その布留式土器。古墳時代前期の土器なのね? やっぱ、古いんだ(笑)
サコ もちろんフルは古いじゃなくて、奈良県の布留遺跡で出土した土器がモデルになっているから布留式です。畿内を中心に流行する土器群で、前方後円墳の出現と関わって、よく取沙汰されますね。
チナ はい。
サコ まず、弥生時代後期と布留式の甕を比べてみましょう。弥生時代後期の甕は小さな平底ですが、土師器である布留式の甕は丸底です。胴部外側の最後の調整も、弥生後期の甕は全体的にタタキの跡が残りますが、土師器はハケメで仕上げるので、なめらかです(タタキとハケメについては前回参照)。弥生後期の甕は、ボテっと厚みがありますが、布留式の甕は内側を削って器壁をとても薄く作っています。土器の厚さが1〜2mmしかないものもありますよ。
チナ わあ、すごい技術。
サコ そうなんですよ。弥生土器と布留式土器の間に、大阪で誕生した庄内式土器と呼ばれる土器群があるんですけどね。ちょうど弥生時代から古墳時代にうつり変わる時期の土器。この庄内式の甕は仕上げがタタキなんですが、弥生後期のタタキより細かく、内面を削って器壁はぐっと薄くなっています。弥生土器から布留式土器への橋渡しをするような作りの土器なんですね。なぜか分布する地域が限定されている不思議な土器でもあります。


左:布留式土器(丸底) 中:庄内式土器(尖り底) 右:弥生土器(平底)

サコ 庄内式にしろ布留式にしろ、こんなに薄い甕を作るのはとても難しく、職人的な技といえるでしょう。
チナ そういえば、サコちゃんは平気だろうけど、土師をハジと読むのは、最初、不思議だったよ。古事記やってから知ったんだけど、古語で土のことをハニと言うのね。ハニワのハニも土よね。で、このハジはハニシが転じたもので、ハニシは土器造りの専門家集団のことだって。だから土師器という名前はまさに職人が作った土器を表していることになる。考古学者の命名かしらね?
サコ はい、土師器もあとで見る須恵器も、平安時代の記録に見える言葉から名付けられました。土師氏は、土器作りだけでなく、古墳造りのエキスパート集団でした。
それはともかく、「お鍋」としては器壁が薄い方が早く煮えるから、ありがたいわけですよね。丸底になったのも、熱効率の向上のためでしょう。庄内式や布留式の甕は、画期的なヒット商品だったと思いますよ。
チナ のちのアルミ鍋やホウロウ鍋みたいに。
サコ たぶんそうだったと。
チナ しかし、安定悪いんじゃないの、底が丸いと。
サコ 大丈夫。五徳のような土製支脚があります。
チナ おお!
サコ 5世紀になると、竪穴住居にカマドが設置されます。また朝鮮半島から移動式のカマドも伝わってきました。だから、丸底でも大丈夫!

チナ ちゃんと工夫があったんだね!
サコ はい(^^) こういう薄い甕は、吉備や山陰、北陸の弥生土器の影響を受けて成立したと考えられています。
チナ てことは、吉備や山陰や北陸のほうが、厚さの薄い製品が弥生時代から見られるということ?
サコ そうですね。
チナ で、古墳時代になると、全国的にこの布留式土器になるの?
サコ それが、ですね。なかなか難しいところで(汗)
チナ ほほう。
サコ お墓も、弥生後期には各地でそれぞれ個性的な墓を造っていたのに、大和に前方後方墳が出現すると、ヤマト流儀の古墳が各地に造られるようになります。それと同じ感覚で、古墳時代になると全国的に布留式土器の影響が広まったみたいな言い方をする研究者も一部にいます。まるで、それがヤマト政権の影響力を示すかのように、ね。でも、それは一部の器種に限られているし、山陰や瀬戸内、東海地方の土師器は地域色が強く、関東や南九州の土師器は、さほど布留式土器の影響を受けているようには思えない。
チナ ううむ、その時代を記録した古文書があればなあ!
サコ ほんと。
チナ 最古の記録である古事記、日本書紀ができたのは8世紀になってからだものね。

≪須恵器≫

サコ さて、布留式土器の終わり頃(4世紀後葉〜5世紀初頭頃)に、須恵器(すえき)が登場します。朝鮮半島の陶質土器の技術が伝わって、作られ始めました。

チナ スヱは、古語辞典によると焼き物、陶器の意味だそうで。
サコ 朝鮮語の「鉄」からきているという説もありますね。平安時代には「陶器」と書いて、「すえもの」とか「すえうつわもの」と読んでいました。考古学では、現在の「陶器」と区別するために、「須恵器」という名称を使っているんです。
チナ 名前が違うだけで、陶器と同じものなの?
サコ いえ、まったく同じではありません。土器と陶器の中間みたいな焼き物なので、朝鮮半島では陶質土器という言い方をしています。焼き方は、ここが新しい技術のひとつなんですけど、窖窯(アナガマ、山の斜面に穴を掘り、粘土などで屋根をつけた一種の登り窯)という大がかりな窯で焼きます。陶器と同じですね。でも、陶器は一般に釉薬をかけて、いろんな色を付けますよね。それに、釉薬はガラス質なので、釉薬で全体を覆えば水漏れしないんです。
須恵器は釉薬を使いません。部分的に緑色の釉薬がかかったように見えるのがありますが、これは、薪の燃えた灰が器にかかって溶けて、釉薬のように働いて出た自然釉です。

チナ 須恵器は、きれいな青灰色のも多いよね。
サコ 須恵器を焼く時、最後に窯を密閉してググっと高温に上げるんです。そうすると、窯の中は酸素不足になりますよね。それで、土器の粘土に含まれる酸化第二鉄のなかの酸素が奪われ(還元され)て酸化第一鉄に変質することで、青灰色になるそうです。「還元焔焼成」と呼んでいますが、これを利用してうまく発色させるのも、須恵器作りの技だったでしょう。焼成がうまくいかかなくて、白っぽい色をした須恵器もありますよ。
チナ 職人はがっかりして首をひねっただろうな。なんで色が出ないんだ?って。それにしても窯で焼くのは、画期的な技術だったでしょうね。

サコ そうですよ。野焼きより高温の状態を持続して焼きしめるので、堅くて丈夫、水が漏れない土器ができます。須恵器を叩くと、チンチンと金属音がします。
チナ そうか、土器は水に弱いものね。でも須恵器は防水仕様なんだ。
サコ ただし、火にかけると割れちゃうのが弱点。
チナ あら、水漏れしないけど直火で割れるって、まるでガラスみたい。
サコ そうなんです、だから、煮炊きには直火に強い土師器が必要でした。そして、火に当てない食器、杯や皿、高坏などには、須恵器も土師器も使われました。
チナ なるほど。
サコ もう一つの新しい技術は、ロクロ。ロクロを使うことで、一定の大きさの器を効率よく作ることができるようになったんです。
チナ ううむ、目覚ましい発展だ。発展の波は、やはり大陸からなんでしょうね?
サコ はい。須恵器の源流をたどれば、中国の灰陶という焼き物のようです。それが朝鮮半島に伝わって陶質土器となり、さらに日本に伝わって須恵器となった、というわけです。陶質土器の技術は、朝鮮半島から渡来した専門工人達がもたらしたと考えられます。ちょうど須恵器が始まる頃、朝鮮半島との関係が緊密になって、各地に渡来集団が移住している様子が発掘調査で確認されています。

チナ ほほう、発掘でそういうことまでわかるの? どういうものでわかるの?
サコ 福岡とか香川、関西など各地で初期須恵器の窯がみつかっていて、そこで出土する須恵器は朝鮮半島のものとよく似ているので、朝鮮半島の職人さん達が移住してきたんだろうと。その後、形や技法がだんだん倭風になっていきます。
チナ で、当時も須恵器の名産地なんかがあったのかしら。
サコ ええ、あったんです。初期須恵器の窯は北部九州や瀬戸、近畿など各地でみつかっていますが、本格的かつ大規模に生産がおこなわれたのは、大阪府南部の泉北丘陵一帯に築かれた陶邑(すえむら)窯跡群です。
チナ ほほう。
サコ ここで、古墳時代から平安時代までの約500年間に、600とも1000ともいわれる窯が築かれた、わが国最大規模の古代窯跡群です。とくに古墳時代には、陶邑窯跡群での須恵器作りが各地のお手本となり、全国的に同じ形が作られ、同じような変遷をたどるようになります。こうしたことから、陶邑窯跡群はヤマト政権が掌握した国家的な須恵器生産だったとみられています。そして、この須恵器が、やがて珠洲焼とか、日本六古窯と呼ばれる備前焼きとか越前焼、丹波・常滑など、釉薬を使わない焼き物に発展していくんですね。

チナ 岡山の備前焼は今も有名ね。常滑焼もよく聞く。でも珠洲焼は知らなかった。それもそのはず、今ネットで調べたら、12世紀後半から15世紀末にかけて石川県珠洲市あたりで盛んに生産されたんだけど、こつぜんと消えたそう。1976年になって珠洲市が復興させて、石川県指定の伝統工芸品になったんだってね。
サコ はい。ここはからくも復興なりましたが、消えたままのところも多いと思いますよ。
チナ 瀬戸物の名前にもなった瀬戸(愛知県瀬戸市)、伊万里焼や有田焼の九州などは近現代もよく知られているよね。不思議なのは関西。京都の清水焼は有名だけど、須恵器時代に、最大産地だったという大阪南部の陶器というのは、近現代ではちょっと聞かないね。ヤマト朝廷が京都に引っ越した時、焼き物屋さんも京都に引っ越しちゃったのかな。
サコ そういえば、そうですね。気がつかなかった。
チナ おもしろいねえ・・・気にしておこう。
サコ ではメキキポイントとまいりますか?
チナ はい! この新春特別企画の最後になりますね。でも今日はここまでにしませんか。長いとスクロールがくたびれる、という声もあるので(笑)
サコ ははは、そうしましょう。
チナ では、土器鑑賞会、最終回は次回に、ということで。

(次回に続く)