新春特別企画 サコチナの土器鑑賞会 これであなたも土器メキキ!
第4回 弥生編

在日伊豆半島人=中山千夏
在日山陰人=佐古和枝

チナ ええ〜〜今回はまさに今の季節にピッタリの土器で。
サコ へ???
チナ さ〜く〜ら〜さ〜く〜ら〜やよいのそ〜ら〜に〜〜
サコ ・・・・・・
チナ ギャグでんがな。ツッコミしてえな。
サコ たはははは(^_^;)
チナ わかってますって。弥生は3月にあらず。東京の一地名。そこで見つかった土器だから、弥生の名前がついたんでしょ。跡地に碑が建ってるの、見たことあります。
サコ 
そうです、そうです、ほっ。1884(明治17)年、東京府本郷区弥生町の向ヶ丘貝塚で見つかった土器が、それまで知られていた縄文や古墳の土器とは違っていたんです。それで同様な土器を「弥生式土器」と呼ぶことになった。
チナ それで弥生土器が使われていた時代が、弥生時代。
サコ いえ、かつてはそう考えていましたが、研究が進むにつれて、弥生時代=稲作文化を始めた時代、弥生土器=弥生社会で使われた土器、というふうに修正されました。
チナ あ、そうなのね。
サコ つまり、素焼きで軟質赤焼きの土器が、縄文時代には縄文土器、弥生時代には弥生土器、古墳時代には土師器と呼ばれている。ロクロを使わず粘土紐をまきあげて野焼きで作るという基本的な作り方は、同じです。
チナ なるほど、製法は同じで、形や装飾が違っているだけなのね。
サコ そうですね。ただし、稲作に適していない北海道や沖縄諸島では狩猟漁労採集を基本とする独自の文化を展開するので、これらの地域の土器は「弥生土器」とは呼びません。北海道では、続縄文時代の続縄文土器、沖縄諸島では貝塚時代後期の土器が地元の地名をとって○○式という型式名で呼ばれています。
チナ すると? 弥生時代は稲作社会と同義だとすると、弥生時代は全日本列島に共通する時代区分ではなくて、稲作社会に突入した地域に限る時代区分ということになるね?
サコ そうですね。
チナ 実年代も学説によって100年単位で上がったり下がったり。とかく弥生時代はヤヤコシイ。
サコ すみません。
チナ うふ、ってところで土器鑑賞にまいりましょう!
サコ はい!

【縄文時代から弥生時代へ】

サコ さて、いまから3000年前ごろ、縄文時代の後期・晩期にあたる時期に、地球は小寒冷期を迎えます。この時期、中国では洪水が頻発して、遺跡が一気に2メートル近くの土砂で埋もれたりしています。
チナ ほおおお。
サコ エジプトでは新王朝が異民族侵入により衰退、メソポタミアでは強大だったヒッタイト帝国が滅亡、ギリシャではミケーネ文明が崩壊など、大きな変動がみられます。その原因は気候変動だけではないかもしれませんが、無関係とも思えない。
チナ 人間の動向と自然環境の気まぐれとで歴史は進むのだなあ。
サコ 日本列島でも、東日本で栄えた縄文の集落が激減します。東日本から西日本へ移住する人々がかなりいたようで、東日本の土器や遺物が西日本各地ばかりか、九州南部でもみつかるようになります。
チナ と聞くと3.11後の人の移動を思ってしまう。あ、ごめん、余計なことでした。
サコ いえいえ。そんなふうに、大昔から現代社会を思い浮かべていただいてこその考古学です。
ええと話を戻すと、だから寒冷化の影響で、山の幸海の幸をいただいて生きていた縄文人たちも、「やっぱり自力で食べ物を確保しなきゃ」と、骨身にしみて思ったことでしょう。ちょうどそこに、朝鮮半島から稲作の技術をもった人々が北部九州に移住してきました。その頃、朝鮮半島は武器が出現し、戦争が始まりだしたので、戦争から逃れてやってきた戦争避難民だったと考えられています。彼らは、稲作とともに朝鮮半島の土器文化をもたらしました。
チナ 稲作と弥生土器を特色とする弥生文化は、朝鮮半島からの移住者によって、北部九州から始まり、列島の西南部に広まった、という理解でいいですか?
サコ はい。
チナ 了解です。あ、それともうひとつ、土器の変化って、何年くらいかかってるんですか? ある地域が縄文土器から弥生土器に変わるのに何年か、という意味ですけど。
サコ ぎょぎょっ!またムズカシイことを・・・。え〜と、縄文土器とは違う「弥生土器」という土器のセットは、朝鮮半島の影響を受けて北部九州で成立します。でも、渡来人が新しい土器文化を伝えたからといって、北部九州での土器作りがすぐに朝鮮半島流儀に一変するわけではなく、縄文土器作りの伝統のなかにじわじわ浸透していくんです。
チナ ま、そりゃそうだろね。
サコ では、その様子を、北部九州を中心に見ていきましょう。

【早期・前期の弥生土器】
≪壺の登場≫

サコ 渡来人がもたらした新しい土器は、壺! 壺は、口のところがすぼまった土器です。
チナ あ、そういえば縄文の器は、口が大開きだった!
サコ でしょ。縄文土器の深鉢は煮炊き用のお鍋なので、口が大開きでいいのですが、壺は稲モミなどの貯蔵用の土器なので、口は小さい方がいい。農耕文化の土器です。
チナ 縄文にくらべると、肌がツルツルだね。
サコ そうなんです。土器の表面をツルツルに磨いて赤く塗ったり、赤色で文様を描いたりするものも朝鮮半島の土器文化の影響です。こうした朝鮮半島的な要素をそなえた土器のセットを板付式土器といって、福岡市の板付遺跡で出土した土器がモデルになっています。

チナ お、板付といえば飛行場。昔、よど号ハイジャック事件で有名になったなあ。

サコ その板付空港のそばにある遺跡です。考古学での板付遺跡は、日本で最古の水田が見つかったことで有名です。渡来人が移住したムラなんですね。水田で、当時の人々の足跡がみつかりました。 この足のサイズから、縄文人より背の高い、渡来人だと考えられています。

チナ うそみたい!
サコ ほんとですってば。
チナ あ、いや、信じてますが、なんかショック。親指が長いっ。よく歩けそうなしっかりした足の裏だ。
サコ ほんと。靴のなかにおさまったわれわれの足が貧相にみえますね。

≪縄文土器から弥生土器へ≫

サコ で、ここからちょっと話がややこしくなるのですが、板付式土器の直前は、夜臼(ゆうす)式土器といって、これが最後の縄文土器とされていました。夜臼式土器のなかでも煮炊き用の深鉢(弥生土器では甕と呼ぶ)は、板付式土器の時期にも残るので、縄文時代から弥生時代の架け橋のような土器として注目されていました。

でも、板付遺跡で、板付式土器の時期の水田の40cm下の夜臼式土器だけが出土する地層で、本格的な水田や農具などが出土して、学界はビックリ仰天したんです。
チナ まだ縄文時代だと思われていた時期に、水田があったってことね。
サコ そうです。それで、弥生時代の始まりを考えなおさなくてはいけないということで、夜臼式土器の研究が進みました。その後、弥生文化の要素である環濠集落や朝鮮半島由来の土器や石器もこの段階で出現していることが確認されたので、いまでは夜臼式土器は弥生時代早期と位置づけられています。
夜臼式土器の甕は、口縁部や胴部の上の方に、突帯文といって細い粘土紐をはりめぐらせていることで、深鉢では突帯に刻み目をいれたものが多くあります。こうした特徴をもつ土器群は夜臼式土器だけでなく、縄文時代の終わりから弥生時代の始めにかけて、九州から東海地方にかけての各地にみられるので、それらを突帯文土器と呼んでいます。

チナ おぉ、刻み目がはいってる!
サコ わかりますよね。突帯文は1本だったり2本だったりしますが、ともあれ土器の目キキとしては、文様のない甕に刻み目突帯文がめぐっているものや、先に紹介した壺をみつけたら、「お、ここにも弥生の風が吹きはじめたか」とつぶやく。これらは、地域が違っても土器の形はさほど変わらないので、安心してください。
チナ うん、こころえた!

≪土器の作り方の違い≫

サコ 土器の形だけでなく、作り方にも朝鮮半島の影響がでてきます。
チナ へぇ〜。こちらの縄文土器と朝鮮半島の土器とでは、作り方が違うの。
サコ はい。土器は、まず底部をつくり、そこから粘土紐(粘土を平たく帯状にしたもの)を1段づつ積み上げていきます。だから、破片をつないで復元した土器をよくみると、粘土紐の継ぎ目でパッカンと割れているものがあることに気づきます。

チナ ほんとだ、継ぎ目が平行に並んでる。
サコ そして土器の破片の断面を観察すると、作った時の継ぎ目がわかる場合があります。その継ぎ目はだいたい斜めになっていて、土器の内側に下がる(内傾)ケースと、土器の外側に下がる(外傾)ケースがある、ということは以前から知られていました。この違いはなにかっていうと、粘土紐は指でなでてくっつけます。親指を土器の内側に、それ以外の指を土器の外側にしてナデるのが自然ですね。そうすると、継ぎ目が内傾になるのは、親指を上から下へ、外傾は親指を下から上へ動かしているってことのようです。
チナ ふむふむ。
サコ それで、縄文土器と板付式の甕や朝鮮半島の土器の粘土紐の接合の仕方に注目した研究によって、縄文土器は基本的に内傾、朝鮮半島の土器や板付式の甕は外傾という違いがあることがわかりました。
チナ  なるほど。縄文人と朝鮮半島の人たちとは、土器を作る時の親指の使い方が伝統的に違っていた、と。
サコ そういうことですね。それから、いわゆる弥生土器には、縄文土器にはなかったハケメの技術がつかわれるようになります。これも朝鮮半島から新たに伝わった技法ではないかという見方があります。
チナ あ、今もハケメと呼ばれる焼き物の技術ありますね。表面に白い土なんかを刷毛でサッと塗って焼き上げ、刷毛目の面白さを愛でるという。
サコ 弥生の土器は刷毛ではなくて板を使うんです。装飾というより表面の仕上げですね。
チナ ツルツル効果や強度を増す効果があったのかな。
サコ ツルツルにはなりませんが、表面をなめらかにしたり、粘土の継ぎ目を強化したのでしょうね。縄文土器は、板ではなくて貝殻を使ったりします。

チナ その頃から移住者は来てたってこと。
サコ そうです。ただ、北部九州の夜臼式土器には、縄文土器の伝統をひく甕(縄文土器の深鉢)と浅鉢に加え、朝鮮半島の流れをくむ壺、縄文とも朝鮮半島ともいえない変容・折衷タイプの三者があります。
チナ もう外来文化をジャパナイズすることが始まっているわけだ。
サコ 列島人の得意技ですね。朝鮮半島的な形の土器を、縄文土器の作り方で作ったり、1個の土器で縄文的な技法と朝鮮半島的な技法が混在していたり、なかなか複雑です。
チナ それは、同じ人が縄文系の技法と朝鮮半島系の技法を使い分けているってこと?
サコ そうなりますよね。
チナ じゃぁ、朝鮮半島系の技法だからといって、渡来人が作った土器とは限らないわけだ。
サコ そうなりますね。どうも在来人たちは、自分たちの土器文化のなかに、外来の技術や価値観を選択的に取り入れているようです。朝鮮半島的な壺に、縄文時代以来の伝統的な木の葉文や重弧文を描いたりしています。
チナ なかなかいい文様だもんね、捨てがたいよね。

サコ あ、そういえば、土器の焼き方は朝鮮半島流儀に転換しました。
チナ えっ、土器の焼き方も、縄文土器と朝鮮半島は違うの? 野焼きじゃないの?
サコ はい。どちらも野焼きなのですが、朝鮮半島では火のうえに草などをかぶせて焼く覆い型、縄文土器は開放型の野焼きだということが、野焼き実験や土器の観察で確認されています。
チナ 実験かあ。ミステリの謎解きみたいで楽しそう。科捜研の考古学者って感じね(笑)
サコ ですよね。こうした土器の様子を細かく観察・分析することで、朝鮮半島からの移住者がどんなふうに北部九州に住みついたか、稲作文化がどのように定着していったかを考える手がかりが得られるわけです。
チナ 技術がまじりあっているということは、在来人と渡来人は同じムラに仲良く住んでいたってことかな。
サコ そうです。いまのところ、この時期に渡来人だけが住んでいたというようなムラはみつかっていなくて、在来人たちのムラのなかで一緒に暮らしていたようです。そして、渡来人に大きく影響を受けながらも、自分たちの伝統はそう簡単に捨てないで、両者をとりまぜた折衷タイプを創りだしていく。
チナ ワ人の得意技だね。
サコ 戦前に「縄文人=“先住民”、“弥生人=稲作をもたらした渡来人”で、渡来人が先住民を駆逐して日本列島を席巻した」という見方が定説のように広まりましたが、そうではないということが、こうした土器の作り方をみてもわかりますよね。土器のカケラの観察も、大切なのです。
チナ ほんとね。
サコ もっとも、土器のなかの縄文的な要素も次第に薄まっていき、板付式の新しい段階(U式)には朝鮮半島的要素が主流になっていきます。
チナ その板付式ってのが、だんだん各地に広まっていくのね。
サコ 板付式の後半(U式)ですけどね。だから、やっとここで千夏さんの質問への答えなのですが、縄文土器から弥生土器にかわるまで、つまり夜臼式土器の時期から板付U式の成立まで、200〜300年かかったことになるのかなぁ。ここらの年代はいろいろ議論があって、よくわからないところです。
もっとも、弥生早期(夜臼式期)の水田は、北部九州でしか見つかっていないし、板付式の古い段階(T式)の土器も北部九州でしか出土しないので、弥生時代早期から全国一斉に弥生時代が始まったということではありませんけどね。
チナ なんか縄文時代とか弥生時代と聞くと、全国一斉にその時代だったような気がするけど、気をつけなくちゃね。あとで考えた時代であって、明治時代とか大正時代とかとは違うんだから。
サコ そういうことです。
こうして成立した弥生土器が、北部九州から各地にじわじわ広まっていき、前期の間に東北各県まで伝わります。もっとも、これは伝言ゲームみたいなもので、伝わった先々でちょっとずつ形が崩れていきます。

チナ あはは、伝言ゲーム! いいたとえだ。
サコ それから、関東以東では、伝わったといってもまだまだ数は少なくて、稲作もあまりうまくいかなかったようです。関東以東では、弥生土器にもずっと縄文の文様が残りますしね。
チナ あら、大阪の、いい形。伝言ゲームで洗練されたのかな。
サコ 畿内については、あとでまとめて話しますね。まずは弥生前期のメキキポイントとして、甕と壺の形を覚えておいてください。
チナ はあい。

【中期の弥生土器】
≪金属器の登場とともに≫

サコ というあたりで時代を進めます。紀元前4世紀頃からを、弥生時代中期と呼んでいます。前期の終わり頃に、また朝鮮半島からの渡来人たちが北部九州に移住して、今度は青銅器や鉄器を造りはじめました。金属器が出現して、社会は大きく変わりました。土器も変化します。
チナ 金属器の出現で、土器の独自性が追求されたんじゃないかな。現代社会でも新技術の出現が旧技術を刷新するってこと、あるもんね。
サコ たしかに金属器の導入は、世界観を変えるくらいの大きな変化だったでしょうね。そのことと、どう関わりがあるのか、ないのか、よくわかりませんが、土器でいえば、この頃に細頸壺、台付鉢、高坏など新しい器種が登場します。そっけなかった土器文化が、器種も文様も多彩になり装飾的になります。

サコ ところで、弥生中期のメキキのポイントは、櫛描文(くしがきもん)・凹線文(おうせんもん)の文様です。櫛描文は、1つの道具で細い線を何本も一気にひける道具を使っています。前期には、1本ずつ描いていたのを、まとめて一気に引いてしまおうという省エネ技法ですね。

チナ 大量生産のためかしら。
サコ よくわかりません。いろんな形の土器を作りたいし、装飾もたくさんいれたいから、効率のよい文様のつけ方が開発されたのかもしれません。これで、波状文や流水文、簾状文、扇形文などいろんな文様を描きました。その道具、専門的には「施文具」というんですが、それは、木や竹などの先端を細かく割ったものとか、堅い植物の枝や茎を束ねたものと考えられています。
櫛描文は、畿内を中心として瀬戸内、中国、四国、関東にどっと流行し、九州・北陸の一部にも広がります。また粘土を平たく丸めた円形浮文をペタペタ貼りつけたりして、とても装飾的になります。

櫛描文については、またおもしろい観察ポイントが。
チナ なになに?

≪土器の文様は右から?左から?≫

サコ 櫛描文の技法には、直線文・波状文・簾状文など施文具を一度も土器から離さずに一気に描くA類と、扇形文・連続刺突文・斜格子文など土器から何度か施文具を離してちょこまかと文様をつけるB類があります。両者を組み合わせたC類ってのもありますけどね。で、一気に描くA類は、回転台を使わないと描けない文様です。
チナ ロクロ!
サコ いえ、いわゆるロクロのようなスピードのあるものではなく、ケーキ造りの時に使うような「回すことのできる台」程度のものだったでしょう。
チナ なるほど。
サコ で、ね。文様をよ〜く観察すると、どっちからどっちに向けて文様をつけたか、方向がわかるものがあります。右ききの人が文様を描くなら、土器を横からみた場合、左⇒右の方向に描くのが自然でしょ。だから畿内の場合、B類の文様は、左⇒右の方向で描かれています。土器を据えた状態で施文したんですね。
チナ ふむ、土器は動かさないで、手を動かした。
サコ はい。ところがです、A類文様をよく観察すると、右から左に向かっていることがわかる。ということは、右手に施文具をもち、左手で回転台を手前に(反時計まわり)にまわした、と考えられる。これは畿内の場合ね。そして東海地方では、A類もB類も左⇒右で、つまり回転台は使っていない。中部高地ではどちらも右⇒左なんだけど、しかし回転台は使わず、口縁部を下にして土器を据えて施文した・・・ということを、佐原真先生が発見しました。その後、東海地方も回転台を使っていること、その回転方向は畿内と逆であることなど、修正された点もありますが、こうした土器の作り方の地域性をみきわめるためにも、文様がどっち向きかを観察することが意味をもつのです。こんなふうに、文様をどうやってつけたんだろ?なんて思いながらマジマジみていると、土器を作っている人の姿が浮かんできませんか?なんちゃって。
チナ いやほんと、古代人がお隣さんみたいに感じられるよ。

≪やっぱり九州はちがう≫

サコ 櫛描文に少し遅れて、中期後半に登場する凹線文は、1本の太くて丸みのある凹線で平行線をひくもので、布や革を折り曲げたものや、布や革を指先やヘラ先に当ててひいたと考えられています。凹線文も畿内を中心として、中国・四国・山陰・北陸・伊勢湾沿岸に広がります。凹線文が出現すると櫛描文は衰退していきますが、概して中期の畿内の土器は、いろんな器種が登場し、文様も華美になります。
チナ 伝言ゲームが先でステキな詩になったようなものね。それで、伝言の出発点では、どうなったの?
サコ ステキになったり、ダサくなったり、いろいろですけどね(汗)。櫛描文や凹線文の出発点である畿内は、中期の終わりまでやはり優美な土器を作っていますよ。でも、櫛描文や凹線文は、九州や東日本には普及しません。だから、そういう地域では回転台も使わなかったと考えられています。ゴテゴテてんこ盛りで装飾したがる畿内と違って、北部九州では、祭祀用の特別に作られた土器として、土器の表面をツルツルに磨いて赤く塗った壺・高坏・鉢・大型器台などが作られます。これらの土器は、見てください、ロクロで水びきされたみたいに洗練された形でしょう。

チナ 実にスマート。精悍だね!
サコ ね、回転台もないのに、ですよ。またこの時期の北部九州では、超大型の甕を棺として使う甕棺墓が大流行。
チナ ああ、ばかでかい土器だよね、あれ。
サコ それです。1mもある土器を、ロクロや叩き具を使わずに作るというのは至難の業。

パートタイムの土器作りの専門集団がいたのだろう、といわれるほどです。やっぱり畿内と九州では、土器に対する思想も違うんですね。
チナ 東北、北海道、それにもちろん沖縄も。まだ各地それぞれ独自に咲き誇っていたのね、弥生時代には。
サコ そうです。稲作文化で均一に塗りつぶされたなんてことはなく、それぞれの地域が個性をもった文化を展開していました。

【後期の弥生土器】

サコ そして紀元後1世紀から後期です。後期になると、全般的に土器の作り方が雑になり、文様も乏しくなります。
チナ あらま。
サコ あれほどゴテゴテ装飾が好きだった畿内でも、文様はほとんどなくなるし、土器の形も単一化してきます。畿内では、甕が小型化します。さて、甕が小型になるのはなぜでしょう?
チナ ふむ。雑になり小型化する。甕は鍋でしょ、鍋が小型化、なぜだろう。
サコ 大家族から小家族になったのかな、とか、丁寧に土器を造っている余裕がなくなったのかな、とか、考古学徒はいろいろ考えるわけですが、何が正解なのかはなかなかわかりません。ただ言えるのは、中期の終わり頃には、また地球が少し寒冷化して、その影響でか、畿内では洪水が頻発し、遺跡が土砂で埋もれたりしています。そして、中期の大集落も後期になるとどこかに分散してしまい、山の上に小さなムラが点々と営まれます。そういう時期の土器の変化なんです。
チナ 集落も土器も小型化ねえ。あ、今の仮設住宅みたいなものだったんじゃないの? 土器も引っ越しが簡単なように小さくして。どうも物騒な時代だったんじゃないの?
サコ そんな感じだと思います。正解はなかなかわからないけれど、土器が変わるというのは、人間社会や価値観に何か変化が起きたことを示していると考えて、その背景をいろいろ想像してみることが大切です。これも、土器のメキキの心がまえ。ってことで、土器鑑賞に戻りましょう。
チナ はいっ!

サコ 後期になると、畿内の甕に「叩き」という新しい技術が登場します。刻み目をいれた板で土器の外面を叩いて、形を整えたり空気を抜いたりするのです。
チナ ああ、現代の陶芸でも使うよね。
サコ はい、現在でも世界各地の土器作りや焼き物の技術として使われています。土器の表面には、叩いた跡が残ります。叩きが使われている甕は、後期です。これ、目キキのポイントですね。ただし、叩きは、弥生時代の終わりから古墳時代初頭にかけての庄内式土器にも使われますが、その話はまた次回。

チナ あれ、叩きの技法は、いまでも使われているくらい有効な技なのに、他の地域は使わなかったの?
サコ いえ、山陰と瀬戸内は、叩いた後に外面はヘラ削り、内面はハケメ調整して、器壁を薄くしています。だから、叩きの跡が残ってないんですが、よ〜くみると叩いた跡がわかる場合があります。畿内は叩きっぱなしなので、土器がぶ厚くてボッテリした感じです。
チナ 研究するにはあんまり丁寧に作られるのも困りものですなあ(笑)
サコ では、後期の各地の祭祀用土器を見てみましょうか。後期になると、各地域において墓や祭祀が個性的なスタイルを形成します。土器も、地域ごとの個性が強く示されます。
チナ おお、メキキにはありがたい状況。
サコ いろいろあって覚えるの大変かもですが(^_^;) 山陰や吉備では、口の縁が二重になっている二重口縁壺、東海地方では赤白ツートンカラーのパレス式土器、そして、われらが熊本の免田式土器などです。

チナ 出た! サコちゃんが発掘にかかわった免田式土器。実に個性的な姿だよね。
サコ ねっ。この形にはびっくりですよね。免田式土器の長頸壺は、ソロバン玉のように鋭角な胴部、長い首。とっても珍しい形です。ものすごく丁寧に土器を磨き、赤く彩色したりして、重弧文という文様を刻んでいる。弥生土器のなかでもっとも気品があるという研究者もいるほどです。
チナ 弥生後期は仕事が雑になったとさっき聞いたけど、これらは山陰のも東海のも、ちっとも雑じゃないね。
サコ はい。祭祀用に特別に丁寧に作られた土器ですから。多くの地域はそれぞれに、祭祀のために特別に飾られた土器をもっています。ところが、畿内はそれがないんですよね。
チナ え! そりゃまた個性的ね。なんで?
サコ さあ。畿内の弥生人たちは、日常容器で神マツリをしたのでしょうかしらん。
チナ または土器を使わない祭祀だったとか? まさかお祭りしなかったはずはないしねえ。かなり特殊な地域ね、後期弥生の畿内は。そこに後年、記紀を作るヤマト政権ができるってのは・・・あわわ、こりゃ脱線間違いなしだから、土器鑑賞に専念!
サコ あははは。
チナ で、東日本の弥生後期はどうなんですか。そろそろ縄文は卒業?
サコ いえ、関東以東では、弥生時代を通じて、地文として縄文を使いつづけます。土器の形をみると、ああ弥生土器だ、とわかるのですが、全体の形がわからない小さな破片だと、西日本人のサコには縄文土器との区別がつかないです。

というあたりで弥生はおしまいにしたいと思います。
チナ はい、では、最後にメキキポイントを。東北、北海道、沖縄などはこの際、置いておきます。
サコ いいでしょう。
チナ ええと、まず、突帯文土器と口のすぼまったツルツルした壷がでてきたら、おお、弥生の始まりだな、と。
サコ はい。縄文土器に比べるとシンプルで、縄文土器みたいなワクワク感はありませんが、無駄をはぶいた美しさはあると思います。縄文人は、土器で精神世界を表現しようとしましたが、弥生人は機能優先。農耕を始めたことで、合理的な思考回路が鍛えられていくんでしょうね。
チナ で、ロクロで描いたような横線模様がたくさんあれば、中期の畿内カブレかも(笑)。ただし、九州では、赤く塗ったツルツルの土器。文様、装飾が少なくて作りが雑に見えたら、ふむ、後期ですな、と。ただし、祭祀用は作りが丁寧、でしょ?
サコ はい、そのとおり。
チナ よおくわかりました。弥生土器は縄文以上にメキキになるのがムズカシイっ(笑)。

サコ それでは次回、古墳時代の土器をお楽しみにっ!

(次回に続く)