第268回 書き残された「歴史」の怖さ

佐古和枝(在日山陰人)

わぉ〜!珍しく千夏さんに褒めていただいちゃった!(^^)! でも、遺跡の話がオリンピックのエンブレムの問題に通じるとは、気づきませんでした。
たしかに、どちらも「公共物」という点で、プロの意見を「葵の御紋」のように問答無用で押し付けてはいけないですよね。たしかにプロとシロウトの間のギャップは、身につまされる問題です。
でも、芸術はちょっと違うかもしれませんが、学問や行政の世界では、そういうシロウトさんの無知やワガママに対応することも、プロの仕事のうちです。プロの言い分をシロウトさん達が納得できるまで丁寧に説明する。またはプロの側が少し譲って折り合いをつけながら時間をかけて満足できる水準にもっていく。

あとは、シロウトさん達のレベルアップを地道にやっていくしかない。とくに、子ども達への教育は重要だと思います。サコめも、純真無垢な子どものうちに「考古学は、おもろいぞ」と洗脳しようと企んで、いろいろやっています。大人達には、講座や遺跡ツアーなどを通じて、考古学ファンのレベルアップに励んでおります。


そうそう、先週は北海道の東南部、オホーツク海沿岸の網走、知床、羅臼、根室、釧路と遺跡めぐりのツアーをしてきました。私も初めて訪れる土地なので、北海道で長年考古学をやっている大学の同級生(北海道某市博物館館長)に3日間、同行してもらいました。
同級生とはありがたいものだと感謝感謝。その彼が「いちばん北海道らしい土地に行かなきゃ」と言って企画してくれただけあって、アイヌ文化が生まれゆく経緯と背景を、少しばかり体感することができました。

千夏さんが「アイヌ問題に、なんで旧石器時代から?」とおっしゃっていましたが、文字文化をもたなかったアイヌ文化の歴史の解明に、考古学は必須でしょう。考古学は、国家というものが存在しない時代、“民族”などという認識のなかった時代、あの地域の人々がどのように暮らしていたかを教えてくれます。そういう意味で、とても興味深く刺激的な遺跡めぐりの旅でした。

遺跡めぐりの中身については、またの機会に語るとして、ちょうど札幌の北海道博物館で開館記念特別展「夷酋列像〜蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」をやっていました。私は見学できなかったのですが、一日早く現地に着いたツアーの参加者達は「これだけでも来た甲斐があった」というほど大感激。
「夷酋列像」は、松前藩の家老で画家の蠣崎波響が、1789年のクナシリ・メナシの戦いで藩に協力した12人のアイヌの有力者達を描いたもの。あでやかな衣装をまとったアイヌの人たちの絵、よく見かけると思います。アイヌの人たちは大陸との北方交易で「蝦夷錦」と呼ばれる中国製の高級絹織を入手していたから、さすがに豪勢だなぁ〜と思っていたのですが、これって松前藩がもっていた衣装をアイヌの人たちに着せて描いたんですって。知らなかったぁ。

「ここで、クナシリ・メネシの戦いの首謀者達37名が処刑されたんです」と、根室チャシ群で説明をうけた時は、ちょっと身のすくむ思いがしました。この戦いは、強奪・強姦・殺人など商人飛騨屋久兵衛らのあまりにもひどい仕打ちに、アイヌの人たちが決起したもの。この時期の松前藩や和人商人達の横暴ぶりは、日本人であることが嫌になるほど極悪非道です。しかし、松前藩にたてついても、勝てるわけがない。全滅を回避するために、松前藩に出向いて交渉した12名のアイヌの長老達を描いたのが、「夷酋列像」です。彼らは、泣く泣く若い首謀者達の命を差し出すことに合意しました。
しかし、納沙布岬の近くには「横死七十一人之墓」という石碑が建っています。裏面には、「1789年にこの地の非常に悪いアイヌが集まって、突然武士や漁民を殺した。その犠牲者の名簿は役所にある。その供養のために1812年に建てた」というようなことが書かれています。
「夷酋列像」にしろ「横死七十一人之墓」石碑にしろ、支配者とは、こうやって自分たちに都合のよい歴史を書き残すのだということを目の当たりにする思いです。北海道の雄大な遺跡群に感動しつつ、アイヌの歴史に胸が痛む旅でした。

「夷酋列像」は、来年2月25日から5月10日まで、大阪府吹田市にある国立民族博物館でも開催されます。ぜひ!