第267回 遺跡とエンブレム

中山千夏(在日伊豆半島人)

>甘いかなぁ〜(^_^;)

ははははは、ウチら甘いからやってられるわけで。
でもま、塩辛さも甘みを引き立てるには必要なので、こんな意見もアタマのなかにいれておきたいと思ってる。

https://note.mu/antiwarstreet/n/n9eab273f8c1c

https://note.mu/antiwarstreet/n/n59abc314c377

ところで、サコちゃん、いいぞお!

>遺跡の大切さというのは、専門家だけで決めていいものじゃない。(中略)専門知識のない一般市民が日々の暮らしのなかから肌感覚で叫ぶ声に、専門家は真摯に耳を傾け、応える義務がある。だって、専門家の存在価値は、専門家ではない人達あってこそのものなのだから。

だよね、だよね! 
私、最近、そっくりなことを痛感した。
ただし、〈遺跡〉についてじゃなくて、デザインについて。〈専門家の存在価値〉は考えなかったけど、公共物について考えた。

ほかでもない、次のオリンピックのエンブレムのデザイン盗用事件。いや、盗用は適切ではない、「類似」だね。確かに、作家がプレゼンテーションで使用した映像は、ネットから取った他人の画像を無断使用したものだけれど、エンブレムのデザインそのものは、作家が言うとおり、盗用ではないらしい。

そう考えるようになったのは、デザイン関係者らしいひとのブログで、詳細な分析と意見を読んでから。
まず、幾何学的なデザインというものは、具象絵画のようなオリジナル性を持ちにくい、つまり、類似することが多くなる、ということ。納得。トイレの男女マークなど思うと、大納得。そんなことデザイン界では常識で、だから盗用元による訴訟も成り立たないほどのものらしい。
さらに、細かいことは忘れちゃったけど、あの作品の、四角や円の配置の妙、託した意味、変形した場合の広がり、などの詳細な解説を読んだら、なるほどこれはオリジナリティー充分な名作なのだ、とわかった。
だから、友人のデザイン関係者も、作品そのものは高く評価していたのだな、と納得した。

問題は、そのブログ筆者も言うとおり、選考方法にあったのよ。
もし選考方法が政治家と専門家による過剰な密室選考ではなくて、ブログ筆者が提案しているような、テレビでの公開プレゼンテーションと視聴者投票による選考、みたいなもので決まったものならば、作者が盗作の汚名を着ることも、異常な作者叩きに終始することもなかったと思うよ。

ただし、この作品が選ばれたかどうかは疑問だね。「なにこれ、ちいともよくないじゃん」と思ったシロウトは私だけじゃないと思うよ。詳細な専門家の解説を読み、名作、と納得した今でも、いいデザインとは感じないし。
いや、シロウト感覚がよい、のでは断じてない。ある種の専門家として、それは断言できる。芝居にせよ歌にせよ文にせよ、シロウトはおおむね、専門分野について鈍感かつ悪趣味かつ無思想である。だからシロウトなのだ。

そうであっても、サコちゃんの言葉を借りれば〈専門知識のない一般市民が日々の暮らしのなかから肌感覚で叫ぶ声に、専門家は真摯に耳を傾け、応える義務〉があった。〈専門家だけで決めていいものじゃない〉のであった。
なぜならば、それは、作品が「公共物」であるからなのよ。税金を使って作られるもの、日夜、みんなが目にし取り巻かれるもの、つまり、シロウトの生活に深く関わる作品だからなのだ。シロウトに対して、一所懸命、候補作の素晴らしさを解説し、それでもわかってもらえない時は、たとえ専門家の眼には名作であっても、凡庸な駄作に当選を譲るべきものだったのよ。

その義務を怠り、公共物を私物化して、応募条件からして一部の専門家しか関与できない、公募選考とは名ばかりのシステムで進行した政治家と専門家には、ほんとうに腹がたつね。国立競技場事件も同じ。
もうううう、オリンピックそのものがますますキライになっちゃうよ!
選手のみなさんにウラミはないけど。でもねえ、選手を引退したひとたちのその後を見ると、やっぱ、オリンピックなんかやめちゃえ、と言いたくなることが多いよねえ。