第265回 国会包囲数十万人!

中山千夏(在日伊豆半島人)

今日はちょっと長くなるの。それに特にサコちゃんに宛てたものでもないから、暇ある時に読んでね。

2015年8月30日の国会包囲デモ、大きかった!
私は行かなかったけど、Facebookのトモダチは大半参加。
警察発表3万人、主催者発表12万人、足して2で割る宇井純方式なら7万人。
各地で同調してあった行動の人数を合わせたら、もっと多くなるはず。

この何ヶ月かの間に、個人が、また老若の雑多なグループがどんどん加わって、こうなった。ネット報道で人気だったのは若者グループSEALSだね。
それ見てて度々思い出したんだけど。
昔々、21歳のテレビタレントが若者雑誌にこんなエッセイを書いた。

 一九七〇年。何かしたい。
が、何やら訳知り顔の正義漢面の葬式行列には加わりたくない。私は訳も判らないし、正しい人間でもないからである。それに、真面目くさったことは、つい茶化してみたくなる根性曲がりでもある。
 しかし、戦争だけは嫌である。
 単純に、反戦と、戦争につながるあらゆる行為の拒否だけを叫びたい。
 中学の時、ある教師が、単に反戦を唱えるだけでは駄目だ、そんな甘いものではない、と云うようなことを云った。私はそれを不思議に思った。後に、それと同じような言葉を何度も聞いたが、判らなかった。
 単に反戦を唱えることは、甘くはないと思えるのである。いや、やはり甘いのかもしれない。しかし、何もかも、そのことから出発したのではなかったか。現在とその出発点とは、確かにつながっているのだろうか。遠クニ来スギテ迷子ニナッタ。そんなすすり泣きが聞こえる気がしてならぬのである。
 こんな行進のイメエジを持っている。
 そんなに多人数の行列ではない。ずいぶん思い思いの格好をしている。ゆかたがけ、ねじりはちまき、花だらけ、ぬいぐるみ、インディアン、ジブシイ風、とにかく派手である。先頭に飾られたワゴンが一台。二、三人の、やはり明るい服装をした男女が、すっくと屋根に乗っている。やがて、腹の底をゆさぶるようなリズムが鳴り出す。
 車上の男がひとり、単調なメロディを力強く叫び出す。
 オレハ イヤアダ イヤダ!
列の人々が答える。
 イヤアダ イヤダ!
男 戦争ハ、イヤアダ、イヤダ!
列 アアア、アンポ、イヤダ!
男 金ハ、イヤアダ、イヤダ!
列 アアア、イヤダ!
男 ボロ家モ、イヤアダ、イヤダ!
列 アアア、イヤダ!
男 ヤモメモ、イヤアダ、イヤダ!
列 イヤアダ、イヤダ!
男 ダケド、モット、モット!
列 アア!
男 戦争ハ、イヤアダ、イヤダ!
列 アアア、アンポ、イヤダ!
男 ココハ、オレノクニ!
列 ソウダ!
男 ココハ、オレノクニ!
列 ソウダ!
男 ココハ、オレノクニ!
列 アアア、アンポ、イヤダ!
男 戦争ハ、イヤアダ、イヤダ!
 えんえんと続くのである。
男 アレハ、ヒトノクニ!
列 ソウダ!
男 アレハ、ヒトノクニ!
列 ソウダ!
男 デモ、コワスノハ、イヤダ!
列 アアア、アンポ、イヤダ!
 人々は、リズムに乗り、足取り身ぶりも思い思いにおもしろく、街路をねり踊り歩くのである。単に反戦を唱えるこの奇妙な行列がふくれあがって街路を街をうめつくしたら権力側はどう出るだろう。そして、複雑な人々は? 割と真面目に、考えているのである。
(『若い生活』1969年9月号所載・中山千夏「小さな海 3」より)

 当時ラップはまだ無い。この筆者はまだウーマンリブを知らない。そうでなければ、シュプレヒコールはラップに、リーダーは〈女〉になっていただろう。党派や労組に組織された黒っぽいデモに疎外感を抱きながら、筆者が憧れ想像したこの〈行進〉が、ほぼそのまま、40余年後の今、実現している。筆者は老人になりそこそこ〈複雑な人〉となってそれを見ている。その胸中やいかに? 

 夢が叶って大得意、でないことは確かね。
音楽、特にノリやすい音楽と政治が結びつくのはアブナイ、と確信する今、〈明るい服装をした〉若者たちが、〈腹の底をゆさぶるようなリズム〉にノッて〈単調なメロディ〉で、世論の大多数に異論ない語句を〈力強く叫び〉〈腹の底をゆさぶるようなリズム〉を縫って細切れにナイーブな意見を語るのを見ると、そぞろ不安になる。
あれだけ暴れた若者たちの多くが、70年安保を境に羊と化し、どどっと体制入りするのを見てきた今、この若者たちの明日が不安になる。
かつての若者と違って、〈甘い〉ぶん挫折は少なかろうが、飽きる、というのがある。組織のしがらみがないぶん、飽きたらばらばら。ネットで繋がっての大イベントなら、なにも反権力行動でなくてもいいわけで。

てな老婆心のみじんもない21歳は、〈単に反戦を唱えるこの奇妙な行列がふくれあがって街路を街をうめつくしたら権力側はどう出るだろう〉と楽しみにしている。
大規模国会包囲デモの前日、私は同じことを考えた。そして、こう自答した。
「権力者には、ヘでもなかろう。無視だろう。おそらく、内心でこう反発するだろう。何十万人のデモと言っても、全国民からすればわずかなものだ。国民のごく一部が示威行動しているに過ぎない。そんなもので、オレの政策を曲げてなるものか」

31日。橋下徹大阪市長はツイッターでこう言った。
〔日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?はぼ数字にならないくらいだろう。こんな人数のデモで国家の意志が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。〕
 ほらね。
公言するとは人民を舐めたヤローだが、多数決を利用して、私個人の望みを果たそうという権力者の、これが本音だ。
〈単に反戦を唱えることは、甘くはないと思えるのである。いや、やはり甘いのかもしれない〉
とかつて書いたが、どこがどう〈甘くない〉のかは、わかっていなかった。今やはっきりしている。〈単に反戦を唱えること〉〈出発点〉なのだ。そして〈出発点〉〈現在〉とを、確かにつなげようと思うなら、獰猛な権力者と闘わなければならない。橋下の言動を見れば、それがいかに〈甘くない〉かわかるだろう。
人民が橋下のような権力者を翻意させるには2つしか方法はない。
ひとつは破壊的暴力的な行動によっての、彼らの政策阻止行動。これには民主主義人民すべてを敵にまわす覚悟がいる。
もうひとつは選挙活動。そう、果てしなくダサく地味で納得いかない根気のいる面倒なほとんど労多くして益少ない活動。
だから悪質な権力者との闘いは、少しも甘くないのだ。
それでも続けようぜ、皆の衆。時々、派手な行進で活気づきながらさ。

なあんてね。やっぱ私も少々、群衆に高揚してるのね、ははははは。