第264回 熊襲と蝦夷のスカイプ対談

佐古和枝(在日山陰人)

「民族」という概念は、研究者によって定義もまちまちだし、言葉の使われ方もいろいろだから、なかなか難しいですね。「民族」という言葉が広く使われだすのは、近代国民国家の成立以降のことでしょう。われわれ考古学は、それよりはるか昔からの人々の生活文化を主として研究しているから、どうもピンとこないところがあります。縄文時代や弥生時代に、「日本人」なんて存在してないし(^_^;)

いま東北の被災地では、復興事業にともなう事前の発掘調査が続いています。そのうちの一つ、宮城県の山元町の合戦原遺跡で、700年前後の横穴墓群で線刻壁画がみつかりました。人や鳥などを横穴墓のなかの壁に描いたものです。それに感激した地元NPOの人達が、合戦原遺跡の勉強会を開催。そこに千夏さんと共通のお友達であるM女史がいて、不肖サコめに講師依頼がありました。偶然ですが、線刻壁画は私の卒論・修論のテーマなのでした。おお〜、しゃべりたい!
しかし、その勉強会の日、私は熊本県球磨郡あさぎり町で、私達が発掘調査をした本目遺跡の発掘20周年記念イベントの真っ最中。なので、地元研究者に講師をお願いしたのですが、事情があってドタキャン! 時間もないし、仕方ない。「ええい、私がやりましょう」ということに(^_^;)
先にパワポと原稿を作って山元町のM女史に託し、熊本でのイベントのお昼休憩の時間を利用して、スカイプで山元町の人達と質疑応答を交わすというサーカス芸をやりました。

その時、山元町の会場から、「当時の東北の人達は、何人なのですか?」という質問がありました。おそらく質問者の頭には、「日本人」、北海道の「アイヌ人」、東北の「蝦夷(エミシ)」とかいう言葉が浮かんでいたのだと思います。12世紀頃から固有の文化を展開していたことが考古学で確認できる「アイヌ人」はともかく、何をもって「日本人」といい、何をもって「蝦夷」というのか。難しい問題です。
『古事記』や『日本書紀』に登場する、関東・東北の「蝦夷」とか南九州の「熊襲(クマソ)」とは、稲作文化を基盤とする倭国の中心勢力が、非稲作文化の地域で自分たちとは違う文化をもつ人々を蔑視した呼び名と考えられています。しかし、いつの時期のどのエリアのどういう人々をそう呼んだかは、文献資料ではよくわからないのです。こういう場合は、考古学に頼るしかない(^^)v

クマソの場合、南九州には5世紀を中心に、地下式板石積石室墓とか地下式横穴墓という独特のお墓が造られます。その構造はヤマト主導のいわゆる古墳とは大きく異なり、日本列島でもっとも個性的な墓を築いた人々といえるでしょう。だから、こういう人々がクマソとかハヤトと呼ばれたのではないかと考えられます。
こうした地下式のお墓は、かつては古墳を造るほどの力をもたない人々が残した墓だといわれていましたが、近年の発掘調査では、そこらの古墳よりもはるかに豪華な武器・武具類や馬具などの副葬品をもつ地下式の墓が相次いでみつかっており、並々ならぬ集団であったことが明らかになってきました。
東北についても、復興事業に伴う数々の発掘成果によって、その豊かさや活力が注目されています。「考古学は、地域に勇気を与える学問だ」という恩師の故森浩一先生の言葉を思い出します。

ヤマト側が書き残した一方的なクマソ像を、考古学で吹き飛ばせ!というイベントをクマソの本拠地でやっている、まさにその日に、エミシの地である東北の山元町の皆さんと遺跡をめぐって考古学談義をするなんて、やろうと思ってもなかなかできない演出ですよね。しかも、むこうは私のン十年前の専門テーマ。これは偶然ではなく必然、「オマエの仕事だ」と神様がセッティングしてくれた素敵な出会いだったような気がします。
がんばろう、クマソ復権&エミシ復権!


熊本県あさぎり町本目遺跡発掘20周年記念イベントで本目遺跡の見学会


宮城県山元町合戦原遺跡の横穴墓群(現地説明会資料より)