第258回 人を幸せにするための経済学

佐古和枝(在日山陰人)

選挙は、ちゃんと投票に行かなきゃいけない! その理由が、千夏さんの解説でよ〜くわかりました。かくいうサコも、若い頃は「関係ないや」と能天気、投票に行かずにいました。しかしある時、大学の恩師のお母上(明治生まれ)が「今度、戦争が起きたらアンタらのせいやで。私ら、反対したくても選挙権がなかったんやから」と言われて、目が覚めた。それ以来、必ず投票には行っているし、選挙のたびに学生たちにこの話をして「参政権のある人は、必ず投票に行け!」と言っています。

日本がどんどんおかしくなっていく気がします。その理由のひとつは、人間らしい生活よりも何よりも、お金儲けが最優先されているからでしょう。「それは間違っている!」と、大飯原発・高浜原発の再稼働にNOをつきつけた樋口英明福井地裁裁判長が降格されてしまうなんて、世も末だ。教育にまで市場原理がもちこまれ、「お金儲けにならない文化系学問に税金を使うのはいかがなものか」と首相がノタマって、国立大学の文化系学部はますます窮地に。人間の心や歴史を学ばない科学者ばかりになるなんて、考えてもゾッとします。一足先にそれをやったアメリカは、間違いだったと再び文化系学部に力を入れるようになっているのに、何やってるんだろ、この国は。

千夏さんは、ずいぶん以前に「マンバ様」の本を書いて、そういう拝金主義を批判していましたよね。もっと早く戦後の高度経済成長期、世の中が経済的な豊かさに夢や希望に満ちていた時、人間よりも経済効率が優先されていることを痛烈に批判したのが、昨年86歳で亡くなられた世界的な経済学者の宇沢弘文さんでした。

宇沢さんは「すべての人が人間らしく生きることが可能になるような制度を考えることこそ、経済学者の役割」といい、小泉首相や阿部首相が押し進めた、市場原理を優先する新自由主義やそれを推進する学者を厳しく批判。その旗頭のミルトン・フリードマンとは、若い頃シカゴ大学で同僚だった頃に、「市場取引は人間の営みのほんの一部でしかない」と大喧嘩したそうです。
そして、宇沢さんは、「社会的共通資本」という考え方を提唱しました。大気や河川、土壌などの自然環境、道路や橋、医療や教育、金融システムなど、人が人間らしく生きるために欠かせないものは、社会の共通財産であり、みんなで守らなくてはいけない。それらを守ったうえで、企業などによる市場競争があるべきだという主張です。そし、成田新空港建設に伴う反対運動や水俣病問題など、現場に駆けつけては弱者の声を受け止める行動派学者でもありました。
「遺跡なんて、残しても経費がかかるだけ」と言われたり、財政難で文化予算がザクザク削られ、博物館や美術館に指定管理者制度が導入されるなど、経済優先主義にはがゆい思いをしてきたサコにとって、宇沢さんの理論は大きな心の支えでした。

宇沢さんが社会的共通資本の理論を生み出すきっかけになったのは、1968年にアメリカから帰国した日本にあふれ始めていた自動車でした。当時、自動車は誇らしい先進技術、裕福の指標、憧れの的でした。たしかに自動車のおかげで、飛躍的に便利になり、生活は楽しくなった。でも宇沢さんには、その経済成長が人間の幸せな暮らしにつながっているとは思えなかった。自動車が社会全体にもたらすデメリット(交通事故、環境汚染、健康被害など)は社会に莫大な負担を強いるものだと、宇沢さんは自動車全盛の風潮に強く警鐘を鳴らしました(『自動車の社会的費用』岩波新書)。「自動車」を「原発」に置き換えたら、そのまんま今の日本にも通じます。宇沢さんが病に倒れたのは、東北大震災の10日後だったそうです。お元気であれば、きっと仁王様のように反原発に立ち上がってくださったことでしょう。

迂闊にも、訃報に接して初めて知ったのですが、なんと宇沢さんは鳥取県米子市出身、私と同郷の人だったんですよ。ひょえ〜!!これは、米子人として、放っておけない。米子人は、宇沢さんをしっかり顕彰しなきゃ!って、米子の幼馴染みのお尻を叩いて「宇沢弘文を学ぶ会」が発足し、活動を始めています。京都在住の私は、ちっとも参加できないんですけどね。

宇沢弘文・・・今こそもう一度、みなさんに読んでもらいたい人です。