第246回 学問は何のために?

佐古和枝(在日山陰人)

アイヌの話、簡潔明瞭に解説していただき、ありがとうございました。考古学協会の大会開催は、イランカラプテ運動とは関係ないのですが、記念講演でアイヌ協会の名称変更について、いろいろ痛みがあった気配は伝わってきました。

明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、わが国ではナショナリズムの高揚とともに、日本人のルーツ論が盛んに議論されました。アジアに植民地支配を拡大していくことを正当化するために、「日本は古代から多民族国家である」という主張が主流を占めていた、ということも、いまとなっては意外な話でしょう。そういうなかで、日本人とは何者だ?ということを確かめたいという欲求が湧き起ったわけですね。

それを確かめる比較研究のために、1920年代から50年代後半にかけて、複数の帝国(国立)大学が競いあうようにアイヌ人骨を収集・収奪した。アイヌと本土人との混血が進み、このままでは純粋アイヌの特性が失われていくという焦りもあったようです。当時、新聞はそうした研究活動を美化礼賛したし、国から勲章をもらった研究者もいます。当時も、非人道的な行為であるという批判はありましたが、「学術研究」や「帝国大学」という権威の前に、かき消された。そういう時代でした。

だからといって、「時代」が免罪符となるわけでもない。千夏さんの言うように、「時代を先取りする人権感覚をもっていなければならない!」。
概して私たちは、いま生きている時代と地域で培われた自分の価値観でしか、ものを考えることができない。それを哲学者の内田樹さんは、「いま・ここ・わたし」を人類史の知的最高到達点であると思ってしまう自己中心主義の見方だと書いておられます。それって、時期限定・地域限定・私たち限定の偏った価値観、ようするに偏見なのである。だから、世界中み〜んな、自分の考えって偏見なんだって思っておくことが必要なのだ。だからこそ、「時代を先取りする感覚をもたねばらない」という意識をもっていなければならないってことですよね。

歴史とむきあっていると、「いま・ここ・わたし」の価値観が絶対ではない、ということを、いろんな局面で叩き込まれます。それを教えてくれるのが歴史学だと思うのに、「わたし」の歴史研究のために、わたし以外の人達を傷つける、ということが現代もまだ世界各地で起きているのは残念なことです。

アメリカやオーストラリアなど世界各地で、ネイティヴの人達との間で、アイヌの人骨問題と同様なトラブルが起きています。だから、ユポさんがひきあいに出したように、世界考古学会議は、先住民族の権利や人権問題を重要テーマの一つに掲げています。世界水準では、考古学もそういうレベルに達しています。

「あらゆる学問は、差別と偏見をなくすためにある」というのは、サコのメモ帳に刻まれた千夏語録の一つです。そして、「わかる、ということは、自分が変わる、ということ」と言ったのは、サコの敬愛する西洋史の阿部謹也センセ。行動に繋がらなければ、本当に学んだということにならないってことですよね。日本考古学界も、変わらねば。

それにつけても、原発問題、従軍慰安婦問題、沖縄の基地問題、ヘイト・スピーチ、政治家の問題発言など、いまの日本には、「ちっとも歴史に学んでない」と思うことがたくさんあります。日本という国は、ちっとも賢くなってない。
それでも、私たちは努力次第で、ちぃ〜っとづつでも賢くなれるはず。私たちがちぃ〜っとづつでも賢くなれば、国のあり様を変えることができるはず。。。。そう信じてきたけれど、そんな希望も萎えてしまいそうな今日この頃。さて、また選挙があるわけですが、私たちが賢さを発揮できるような選択肢って、あるのかなぁ・・・