第237回 シロウト歴史学三原則!

中山千夏(在日伊豆半島人)

わ〜い!もやもやが一挙に解決した感じ!

お忙しいところすいませんでした。
シロウトにわかりやすく、しかも飽きないように、それでいて詳しく説明するのは、とても技術を要することです。
サコちゃんは学者のみならず、教師としても秀逸だ、といまさらながら感服しました(^^)。

岡田英弘説、非常におもしろいね。
そうか、このひとが邪馬台国の中国史書誇大説の本家だったのかあ!

サコちゃんまとめの〔『古事記』が『日本書紀』より新しいとみる主な根拠〕@〜G、また岡田論の最初の三つは、反論を見たことがあるし、私も屁理屈をこねて退けてたものもあるけれど、〔『古事記』を書いた人物の最有力候補〕の詳細(初耳!)は、説得力あるなあ。
ふうん、多人長さんねえ、ありそうな話!

となると、私お気に入りの(日本書紀に無い)ミヤズヒメの月経の歌は、人長さんのおかげで世に残ったことになるわけね? 
今、古語の古語とされている(日本書紀に無い)モなどの書き分けも? 
(日本書紀に無い)カバネを持つ女性名の事実如何、新旧はどういうことに? 

しかし、私は人長さんについてなにも知らないので、〔白旗降伏〕どころか判定不能です。岡田センセにも会ったこともないし^^;

でも、〔およそ人が書いたものは、書いた人の立場や価値観、当時の政治社会情勢というフィルターがかかっている、ということは歴史学の基本の基本〕というのは、多くの研究者が同意するところで(私の古事記への入り口になった古田武彦さんも言っている)私も大賛成です。
それに加えて、前にも言ったとおり、文献には書写伝達方法の危うさもあるわけで。
ま、それは置くとして。

問題は、「当時の政治社会情勢というフィルター」をどう見るか、にある。それがよくわかったのが、私にとって今回のサコ講義のすごいところでした。
フィルターを正しく認識しないと、記述の歪みは矯正できず、事実は見えてこないものね。
フィルターの認識を誤れば、事実を歪めてしまう恐れさえある。

そして、そこに文献古代史学(古代史をもっぱら文献によってする研究のこと…今できた私の造語です^^;)の本質的な問題あり、ではないかしら。改めてそう思った。
文献を疑うという同じ姿勢を持つ研究者が、しばしば北と南ほど異なる結論にいたるところにも、その問題があるのではないかしら。

むろん、不勉強は問題外ですが、文献にとても精通していても、結局、文献を文献によって吟味せざるを得ない、というどうしようもないジレンマが文献古代史学にはあるでしょ。
岡田論の方法にしても、見も知らぬ時代の見も知らぬひとが書いた古文献によって、当時の政治社会状況を見定め、それでもって古文献を吟味している。
極端に言えば、主として信を置くのが中国古典史書か、日本書紀・続日本紀か、古事記かetc…で、当時の政治社会像は違ってくる。当然、その像による文献批判の結論も違ってくる。

それでも学者なら、どの文献のどの記述がより事実に近いかの解明に、学問的努力を傾け、切磋琢磨すれば充分なわけですが、さあてわれわれシロウトはどうすればいいのだろう。
もともと古事記に接近した動機のひとつが、学問的権威を信用していたら(戦前のように皇国史観を植え付けられて)えらいことになる、自分で考えろ、ということだったからね。
(むろん、歴史以上に科学一般、権威の盲信は危険、とはフクシマ原発が証明したばかり)。
ううむ、これ、大問題〜

!!決めたっ!シロウト歴史学三原則!

@古事記(古文献)研究は従来にもまして道楽にとどめ、歴史認識との直結はつとめてしない。
A歴史認識の道具には、考古学(事物研究)を主として、文献学(情報研究)は補助とする。。
B遺物遺跡および古文献の歴史的解釈には、信頼できる学者研究者の論を用いるが、盲信はせず
、常に反論を考えつつ接する。

こんなところでどうでしょ、サコせんせ?