第236回 「歴史書なんてウソだらけ」って?!

佐古和枝(在日山陰人)

あはっ、千夏さんの封印された古事記スイッチ、サコが押しちゃいました?(;^ω^)
『古事記』偽書説って、実は私も本気で向き合ったことがありませんでした。ってか、もともと考古学徒のわれわれが参考にするのは『日本書紀』なんです。年代の記載がない『古事記』は、必要に応じて参照する程度なので、あまり関心がなかった(^_^;) でも今回、『古事記』とマジメにむきあってみて、あれ?って思うことがいくつかあって、『古事記』に疑問をもち始めました。サコの泥縄式学習の成果は下記の通り。長文になって、すみません。

ご承知の通り『古事記』は、天武天皇が舎人の稗田阿礼に命じて「誦習」させていた「帝皇日継(天皇の系譜)」と「先代旧辞(古い伝承)」を、太安万侶が文章化して712年に元明天皇に献上したものといわれています。しかしそういう話は、『古事記』の「序」だけが書いていることなのです。この序文が怪しいということは、『古事記』偽書説を否定する研究者を含め、多くの研究者が認めています。その主な理由は、

@文書の型式が「序」ではなく「上表文」(上司に提出する役所の文書)になっている。
A序文の文体と本文の文体が違いすぎる。同一人物が書いたものとは思えない。
B序文の内容と本文の内容がくい違っている。
C舎人である「稗田阿礼」にカバネがない。稗田阿礼の存在も疑わしい。
D序文の署名が不備である。
E天武天皇が稗田阿礼に命じて誦習させたということが『日本書紀』には書かれていない。F太安万侶が国史編纂に関わったということが『続日本紀』に記載されていない。
G『古事記』が天皇に奏上されたということが『続日本紀』に記載されていない。

などです。

ここから先、研究者の意見は2つに分かれます。「序」は後で付け加えられたものだけど、本文の成立時期まで疑う必要はないという人達と、本文も『日本書紀』より新しいものだと考える人達です。
F・Gは、無視できないことだとサコは思います。「記録になくても、別に問題ない」という意見もありますが、だとしたら当時の朝廷にとって『古事記』の完成・献上は、記録するほどの価値もないものだったということ?(;^ω^)

それに対して、『古事記』が『日本書紀』より新しいとみる主な根拠は、下記のようなことです。

@『日本書紀』は、「一書」という形でくどいほど異伝を掲載しているのに、『古事記』に書かれている話がほとんど引用されていない。
A神話に関して、『古事記』は『日本書紀』より新しいと思われるものが多い。
B『古事記』の人代記(天皇の時代)は、歌謡や恋愛話が大半を占め、天皇の事績や政治的な重大事件の記述が乏しい。神話のボリュームの多さに比べて、拍子抜けするほど簡単。
C直近の天皇たちの動向ほど重要な意味をもつはずなのに、時代が下るにつれ内容が乏しくなり、仁賢から推古までの最後の10代は、系譜しか書いてない。
D『古事記』の存在について、平安時代まで他の書物で確認できない。宮廷でも、『日本書紀』の講義はたびたびおこなわれているのに、『古事記』はない。
E天武が作らせたというのに、推古朝で終わっている。

さらに岡田英弘氏が著書『倭国の時代』で指摘するのは、

・『古事記』が最初に登場する神として挙げる「天之御中主神」は、『日本書紀』の本文にはなく、6つある「一書」の第4に、三番目に登場するのみ。天之御中主神を重視する説は、807年に斎部広成が書いた『古語拾遺』など平安時代初期の書物に初めてでてくる。

・『日本書紀』では神武の子孫は多臣だけをあげており、815年の『新撰姓氏録』でも7氏族なのに、『古事記』では21氏族をあげている。『新撰姓氏録』は『日本書紀』を参照しながら伝承が一致するかどうかを注記しているが、『古事記』の記事は一度も引用されていない。『新撰姓氏録』が書かれた頃、まだ『古事記』は存在しなかった。

・応神天皇の宮と陵について、『日本書紀』には書かれていない。927年の『延喜式』(830年の弘仁式を引き継ぐ)には宮と陵の記載があり、『古事記』もほぼ同じ表記で書いている。
(サコ注 『日本書紀』が完成した頃は、応神天皇の宮と陵についての認識は曖昧だった。応神の存在自体を疑問視する見方もある。応神天皇への信仰が盛んになる平安時代になって、宮と陵の伝承が生まれたのではないか)
などの点です。

『古事記』を書いた人物の最有力候補としてよく名を挙がるのは、太安万侶の同族とみられる多朝臣人長です。人長は、812年と813年に宮廷で『日本書紀』についての講義をおこなっており、その時の記録である『弘仁私記』の序で、太安万侶が『古事記』を書いたこと、さらに『日本書紀』の編纂にまで関わったと書いています。太安万侶が『古事記』を書いたという記事は、これが最初です。安万呂が『日本書紀』の編纂に関わったとは、他の史料で確認することはできません。これまたどうも、怪しい(^_^;)
また人長は、『日本書紀』の神様の名前の読み方に間違いが多いので、正確な「倭音」で読ませるために朱点をいれた、とも書かれています。なので、歴史学というより国語学のような講義だったみたいです。
そしてこの序では、5種類の書物を挙げてその系譜の記述の不正確さを挙げ、『日本書紀』や『古事記』を読まないからだと批判。とくに『新撰姓氏録』に対して激しく攻撃しています。
 

ここからは、岡田英弘先生の真骨頂。『日本書紀』では、神武の嫡子はカムヤイミミと綏靖天皇の2人で、カムヤイミミが、多臣の祖先となっています(綏靖紀)。ところが『新撰姓氏録』では、カムヤイミミの息子ヒコヤイミミの子孫として、茨田(まんた)連や豊島連が挙げられています。ヒコヤイミミは、『日本書紀』には記載されておらず、『新撰姓氏録』の編者(名前が同じ万多親王の仕業だと岡田先生は思っている)の捏造である。人長は、多氏が成り上がりの茨田連や豊島連などと同族にされたことが気に入らない。

さらに、『新撰姓氏録』の編纂に加わった上毛野朝臣ハヒトという人は、810年の薬子の乱の時、多氏とともに平城上皇に仕えていながら嵯峨天皇側に寝返った人物で、その結果平城上皇は失脚し、多氏は勢力を失い、わずかに雅楽寮の大歌所の大歌師として宮廷音楽を管理するだけの家柄になった。

だから、人長はこの『新撰姓氏録』に反撃するために、氏族の長であった太安万侶の名をかたって『古事記』を書いた。『古事記』では、『新撰姓氏録』で茨田連と豊島連の祖とされたヒコヤイミミからミミという敬称を削除してヒコヤイと呼び捨てにし、カムヤイミミの兄として自分達と別系統にした。おまけに『日本書紀』にある茨田連の伝承はすべて削除した。そうとうご立腹だったんですね(^_^;)
そして、『古事記』を『日本書紀』より古く、太安万侶が元明天皇の勅命で完成させたことにし、さらに『日本書紀』よりも権威づけるために、『弘仁私記』序で太安万侶が『日本書紀』の編纂にも関わったなどと、序文で「ほらをふいた(原文)」とおっしゃっています。

『古事記』に歌謡が多いことも、わざわざ曲名まで記していることも、古語を多用していることも、それが多氏の職務だったためであり、古語が使われているから『古事記』が古いなんてものじゃない、ということです。人長は、『日本書紀』の読み方をうるさくチェックする国語の先生みたいな人だったから、古音にもこだわりが強かったのでしょう。人長が書いたと考えれば、『古事記』への疑問の多くが解決しちゃうなぁと思ってしまうサコでした。

岡田先生は、東大文学部出身の中国史の研究者で、学士院賞も受賞されている本格的アカデミズムの人。そして、「歴史書なんて嘘だらけ」っていう超クールな信条の持ち主です。およそ人が書いたものは、書いた人の立場や価値観、当時の政治社会情勢というフィルターがかかっている、ということは、歴史学の基本の基本です。岡田先生はそのスタンスに徹することで、学界の常識や定説にがんがん揺さぶりをかける。有名なのは、邪馬台国までの距離は『三国志』の作者である陳寿が、当時の皇帝のメンツをたてるためにわざと誇張したものだという論考です。江戸時代以来、距離をいろいろ解釈して邪馬台国を探してきた研究者たちの努力は無駄たったということに (^_^;) 時々、暴走気味でついていけないところもありますが、『古事記』に関しては、サコは白旗降伏。千夏さんは、いかがでしょうか。


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