第193回 ■島ボケ頭で失礼します■

中山千夏(在日伊豆半島人)

ただいまっ!
7月20日、無事、真っ黒くなって、竹芝桟橋に帰り着きましたあ!
立派に一人旅してきましたあ!
なんて、いい年して情けない話ですが、なにせ「箱入り子役」だったもんで(><)

それに島に着いたら知人友人だらけ。あっちこっちで歓待され助けられ、まるで自分ちにいるようだった。また一段と島人との親交が深まり、そういえば毎年通い始めてもう十年になるなあ、と実感する毎日でした。

ボニンこと小笠原は、村としての歴史がごく新しいので(定住が始まって約180年余り、現村政が始まって33年)、ムラやクニの成立を目の当たりにしている感じがする。それがまた私には魅力なの。
島民もルーツがはっきりしているので、その種類もはっきり区分できる。


港にそびえるガジュマルの老樹

旧島民 欧米系
国際的にボニンが日本領土と認められた幕末および明治はじめに、政府が和人の移民政策を行った時点での先住民。彼らは1830年代に初めてボニンに定住した5人の欧米人と十数人のハワイ人の子孫で、米英の委任統治のようなかたちで島を支配していた。日本政府は退去や帰化を強要しなかったので、彼らは言語も文化も国籍も維持しながら、多数の和人と共生し始めたが、言語と文化は維持されながらも、帰化は、少数の旧家を除いて進んでいった。

戦時体制に入ると、急激に帰化や姓名の漢字表記、言語・文化の日本化が進み、日本帝国臣民として敗戦を迎えることになる。小笠原を占領した米軍は、島民の退去を決めたが、欧米系のみについては居住を許した。多くが島での居住を選んだ。姓名表記のアルファベットへの復帰もおこなわれた。彼らは、準米国民として暮らし、日本本土との往来はできなかった。高校以上の教育はグアムで受け、その後も米国領土の島々や米国本土との交流が中心の暮らしが続いた。

1968年、小笠原の日本返還が決まる。今、明らかに白人系ハワイ人系の風貌で、英語名前を持ち、なまりのある日本語の間に、ややもすると英語が飛び出す島民たちは、この時、祖先が拓いた島で生きることを改めて選んだ、先住民の子孫たちだ。

旧島民 和系
敗戦時点で、小笠原諸島の住民だった和人。島民の大半は激戦地となった小笠原を離れ、村役場ごと静岡県清水などに強制疎開していたが、そのまま島は米国統治となり、先に記した米国の方針で、和系島民は故郷へ戻れなくなった。二十数年後の返還の際、行政は、旧島民の既得権を守るために、当分の間、旧島民とその家族しか帰島させない政策をとった。「その家族」というのは、本土で暮らす間に、島民には本土出身のツレアイや本土生まれの子どもができていたわけで、そんな家族のことだ。今、島の政治経済の中心で活躍する和系旧島民の多くは、私と同世代。ということは彼らは旧島民の若い「家族」として島に入った、島生まれではないひとたち、ということだ。返還後の島の復興に、彼らの獅子奮迅の働きがあったことは、言うまでもない。

新島民
70年代に、旧島民(とその家族)でなくても島に居住し新たに村民となることができるようになった。それ以後に、他の地域からきて村民となったひとたち。現在では、島の人口(千人ほど)の約70%が新島民だと聞いている。

私の親しい島民もこのどれかにあてはまる。微妙に立場や利害が異なるけれども、みんな、運命共同体としてうまく共生している、と私には見える。そこんとこ「ひょっこりひょうたん島」を彷彿とさせるのよ。
いずれにせよ、どの島民も島社会開闢以来の祖先物語を記憶に新しく持っていて、それが島の歴史に裏付けられている。そして積極的なひとびとは、日々、島の歴史、文化を新たに作り、自らが伝説になっていく。そんな経験ができるのは、開拓が新しく、本土から隔絶した小島ならでは、じゃなかろうか。



父島のメインストリート

ところで、自衛隊が占めている砂浜に、青いカヤックが2艘、ずっと置いてある。「自衛隊の敷地なんですが、自衛隊がくる前からうちのボート置き場なのだから、と言って、島民のひとがどかしてくれません」と、新任の隊長が言う。前任の隊長も同じ困り顔で、同じ解説をしていたっけ。持ち主は私も顔見知りの欧米系旧島民だ。
それは丸木舟ではなくて、カヤックなのよね。船体に並んで安定器みたいなのがついているやつ。どういう歴史なのか、今回、興味を持った。
それと、欧米系の友人たちには、自ら採集した山海の珍味をよくごちそうになるの。カメもそれで初めて食べた。今年はタケノコに注目した。彼ら、楽しんで競ってタケノコ採りをする。おみやげにもたくさんもらった。こちらで一般に商品化される孟宗竹とちがって、もう少し細い。柔らかくておいしい。なるほど、山にはところどころ、目だたぬ程度に竹林がある。島での竹の歴史はどうなのだろう?なんてね。


船を出迎える島民のスチールパンバンド

世界一元気なんじゃないかと思う島の女たちは、世界遺産効果の賑わいに、ますます忙しくほくほくと稼ぎ、陽気にスチールパンバンドやフラに励んでいた。どちらも年々盛んになって、特に、フラの発展には目を見張るものがある。もうハワイの真似を脱して、ボニンのフラが出来上がった、と言っていいんじゃないかしら。
島の老若男女が出演し楽しむ、オハナという名の大会が、毎年、8月の末にあるの。ビデオで見て驚嘆しちゃってね、「来年はオハナにくるっ」と友人たちに約束してきた。

まだ島通い、続きそう(^^ゞ



誕生日にいただいた手作りのみごとなレイ