第148回 ■国境なき「国境の島」■

佐古和枝(在日山陰人)

9月10日から14日まで、毎月鳥取県米子市でやってる市民講座「むきばんだやよい塾」の第5回韓国修学旅行に行きました。今回は、境港と韓国東海市、ウラジオストックを結ぶフェリーで日本海を渡って韓国入りし、韓国東北部の江原郡をかけめぐりました。韓国の東海岸は、遺跡や出土品だけでなく、その風景、雰囲気が山陰とよく似てるんです。海岸沿いを走っていると、米子の弓ケ浜半島みたいで、「あ、大山が見える!」と言ったら、「え?どれどれ?」とみんながバスの窓から海の向こうを覗きこむ。そんなわけ、ないって(~_~;) でも、そんな気がする。海の表情が、同じ「日本海」なんですね。韓国では「東海」と呼びますが、この海で繋がってるんだなぁと改めて思った旅でした。

んで、帰国してみたら、千夏さんから対馬の話。なんとまぁ〜、不思議なほど絶妙の展開です。対馬は「国境の島」という看板通り、九州では出土しない珍しい大陸製品がいろいろ出土しています。資料館の展示を見ていたら、「日本の土器」という表示がありました。それほど朝鮮半島の土器が出土するのです。釜山周辺の漁師さんは、対馬の見え具合によってお天気を判断したそうです。日本地図は周辺の島を切り貼りして載せるから距離感が掴みにくいのですが、対馬から釜山まで直線距離で約50km、博多までがフェリーで135km。九州本土より釜山の方が断然近いですね。

でも、対馬は少なくとも弥生時代以降、ずっと倭および日本でした。『魏志』倭人伝で、対馬は倭の最初のクニとして記載されています。「居るところ絶島」「山が険しく、深い林が多く、道はけもの道のようである」「良い耕地がなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に渡り穀物を買いにいく」という倭人伝の記述の通り、まるで尖った険しい山の頂上が海に沈みそこねて顔をのぞかせているような島です。平坦な壱岐とは対照的に、海のなかの山国という感じ。かつては林業が盛んだったと聞きました。


だから、弥生時代の集落遺跡は、おそらく現在の住宅領域と重なっていて、なかなかみつからないのですが、お墓や青銅器の埋納遺跡はたくさんあります。とくに、『魏志』倭人伝が倭人の武器の筆頭に挙げ、北部九州の弥生人がいちばん大切にした宝物である銅矛が、対馬全体で約120本も出土しているのは驚きです。遺跡から出土したものだけでなく、古くに発見されて神社のご神宝となっているものも多く、銅矛出土遺跡および伝世場所は65ケ所にも達します。これらの銅矛は、奴国(福岡市から春日市)で作られたもので、西側の海岸沿いに集中しています。対馬に大量に埋納されたのは、大陸との往来の航海安全を祈願したのだろうといわれています。それに加えて、「ここから先は倭の領域だぞ」という異国の神や人々に対する主張の意味もあったのではないかとサコは思います。
対岸の釜山周辺では、九州の縄文土器が出土しているし、九州の縄文前期の土器は、本州・四国の土器より韓国の土器によく似ています。とくに西北九州の縄文人は海の民だから、縄文時代から果敢に朝鮮海峡を往来していたのでした。


良さをもちながら、銅矛を埋めるような「倭人」意識もしっかりある。対馬は、面白い島です。


どの時代であれ、対馬の歴史を勉強しようと思えば、永留先生の研究成果を抜きにはできないでしょう。私は、ご本人にお会いしたことはありませんが、ご著書や論文で多くを学ばせていただきました。古代史から近代までの通史を書くことは、歴史研究者の究極の目標ではありますが、なかなかできることではありません。ついつい自分の専門領域を深めることに夢中になり、タコツボにはまって全体が見えなくなる(~_~;)今回受賞されたご著書は、これまでの研究の集大成なんですね。それは、研究者にとっても対馬にとっても、また日本にとっても、とてもありがたいことです。同時に、歴史学徒としては、「ここまでやってみろ」というお手本をつきつけられたようで、身のひきしまる思いがします。夏休みも今週で終わるし、そろそろ社会復帰にむけて、心身ともにリハビリしなきゃ(~_~;)