第146回 ■入れ墨の歴史■

佐古和枝(在日山陰人)

おもしろいですね。なにが美しく、なにがイケナイことなのか、なんていう価値観は、地域によって千差万別。時代によってもコロコロ変わります。

入れ墨は、世界各地にあった古くからの風習です。いまのところ最古の例は、標高3500mのイタリア・アルプスで、氷河に埋もれた5300年前の男性です。それ以後の新石器時代では、アフリカのエジプト・スーダン・リビア、そしてロシアで発掘されたミイラで入れ墨が確認されています。古代ヨーロッパでは、ブリトン・ゲルマン・ゴーブルなどの諸族が入れ墨をしていました。古代アジアでは、中国江南地方や東南アジア、ポリネシア、そして日本列島の倭人です。古代の人類社会では、珍しくない風習だったといえるでしょう。

もともと入れ墨は、一人前になった証とか、自分の出身や身分の表象、信仰上の大切な儀式という大切な意味をもっていました。しかし、入れ墨の風習をもたない人々が勢力を強めていくなかで、入れ墨が異端の風習とされていく。ヨーロッパでは、古代ギリシャ時代に異端視され、8世紀頃にキリスト教が入れ墨を禁止しています。

古代中国でも、漢の時代には入れ墨は重い刑罰の一つになっています。卑弥呼が魏に送った使節団のオトコ達は、倭国の誇り高きエリート達。でも、顔や体に入れ墨をしていたはずだから、魏の人々にギョッとされて、千夏さんのお友達と同じ思いをしたでしょうね。
ただ、すでに倭人社会でも、入れ墨のもともとの意味は忘れられていたようで、『魏志』倭人伝に「(海で身を守るためのものだった)いまはただの飾りになっている」と書いてある。今も昔も変わらないなぁと笑ってしまいます。その入れ墨も、古墳時代の埴輪でみると、ごく一部の職掌の男性に限られる風習になったようです。

奈良時代以降、おそらく中国の影響もあって、入れ墨の風習は廃れていきますが、それでも漁民や遣唐使船の船員、倭寇が入れ墨をしていたという記録があるので、やはり海との関わりがあるようです。この他、密教の僧侶が経文や仏絵を入れ墨したり、武士が戦場で死んだ時に自分をみつけてもらうために入れ墨をしたなどの話が断片的に残っています。

江戸時代には、入れ墨は刑罰だったり、遊女が馴染みの客への誠意の証にいれたりしました。しかし、江戸の入れ墨文化をブレイクさせたのは、火消しやとび職、飛脚・馬子・船頭・博打うち・侠客など、肌を見せることが多い職業の人達。入れ墨がないと、カッコ悪いと言われたほどです。幕府は禁止令をだしますが、ちっともきかない。「粋」な姿の必須要件として、入れ墨の美しさが競われ、武士のなかにも入れ墨をした人達がいたそうです。

明治政府も、外国の目を気づかって入れ墨禁止令を出しましたが、逆に日本の入れ墨を「カッコイイ!」と思って、イギリスの王子やロシアの皇太子が日本で入れ墨をいれているからおもしろい。帰国してから、お父さんに叱られなかったのかな。
実は私の知り合いに、腕と胸元に入れ墨をいれた男子学生がいます。もちろん「鯉の滝登り」などではなく、いまどきのオシャレなデザインです。最初はギョッとしましたが、近くでみるとそれなりに美しい(^_^;) 礼儀正しい、エエ子なんですよ。見せてはいけないような場では、夏でも長袖を着ています。温泉は諦めたと言っています。でも、彼女に見せたら、フラれたとショゲていました。日本では、やっぱりまだ難しいだろうな。今度会ったら、スウェーデン人の彼女を探せと言っておきます(^_^;)